杉本左近らの追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
そのような中、石徹白豊前による強権的な石徹白支配は更に強められていった。宝暦5年5月6日(1755年6月15日)には、石徹白における反豊前派の急先鋒とされた上村源右衛門、上村猪右衛門、上杉六兵衛の3名の社人が郡上八幡で入牢処分を受けることになった。また宝暦5年の春からは、社人に対して石徹白外へ出ることと3名以上の会合を禁止し、石徹白豊前宅に常駐することになった郡上藩の足軽2名が取り締まるようになった。しかも豊前宅に常駐した足軽の滞在費は社人に割り当てられた。 宝暦5年11月26日(1755年12月28日)、江戸で寺社奉行に越訴を起こした杉本左近、上村重郎兵衛、桜井吉兵衛と、上村源右衛門、上村猪右衛門、上杉六兵衛の計6名は郡上藩領から追放欠所処分となり、6名は三方に分けられて追放された。杉本左近ら江戸越訴組は400日以上、上村源右衛門らも200日以上拘束されており、また杉本左近らは400日あまりの拘束期間に一度も吟味を受けることが無く、そのあげくの処分であった。杉本左近は郡上藩南境の郡上郡美並村母野で解き放たれたが、長期間の拘束によって足腰が立たないほどに衰弱していた。衰弱した左近を見た近隣の住民らの助けもあって、少しずつ体力を回復した杉本左近は、宝暦5年11月28日(1755年12月30日)、旧友である各務郡芥見村の豪農、篠田源兵衛を頼ることになった。
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