杉本幸治とは? わかりやすく解説

杉本幸治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/14 08:57 UTC 版)

杉本 幸治(すぎもと こうじ、1927年4月27日 - 2011年3月13日 )は、書体設計者三省堂勤務を経て、リョービイマジクスの本明朝を制作・監修した。タイポデザインアーツ主宰。

略歴

東京市下谷区東京都台東区下谷)生まれ。東京府立工芸学校(現在の東京都立工芸高等学校)印刷科卒業。

1947年に三省堂入社。今井直一の元で本文用明朝体、ゴシック体、辞書用の特殊書体などの設計開発と、ベントン父型・母型彫刻システムの管理に従事し、書体研究室、技術課長代理、植字製版課長を歴任した。

独自に明朝体活字の開発を進めようとしていた晃文堂の社長・吉田市郎からスカウトを受ける。三省堂にとどまった杉本は、晃文堂の新書体開発に構想段階からプライベートに監修するような立場で関わることになった。「晃文堂明朝」は1958年に発売される。

1975年三省堂が倒産したことに伴い退社。晃文堂の後身で吉田が経営するリョービ印刷機販売(後のリョービイマジクス、2012年にリョービが吸収合併)から依頼を受け、晃文堂明朝の後継に当たる写植書体・本明朝の制作を本格化させる。1982年、本明朝-Lが完成。その後のファミリー展開、デジタル化、監修にも携わる。

2000年から硬筆風細明朝体の必要性を痛感して「杉明朝体」を開発。

2011年3月13日11時26分特発性肺線維症のため死去。

金属活字、写真植字、デジタルフォントの3時代を通じて書体デザインに従事し、60歳を過ぎてからMacintoshを導入し手書きから切り替えた。また書体以外に、謡曲・宝生流の師範としても多方面で活躍した。

外部リンク


杉本幸治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 16:02 UTC 版)

書体デザイナー」の記事における「杉本幸治」の解説

三省堂印刷部門出身。三省堂在籍中から「晃文堂明朝」に深く関わり退社その後身「本明朝」の制作監修に当たる。晩年明朝体」を制作2011年没。

※この「杉本幸治」の解説は、「書体デザイナー」の解説の一部です。
「杉本幸治」を含む「書体デザイナー」の記事については、「書体デザイナー」の概要を参照ください。

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