座光寺久男
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座光寺久男
ざこうじ ひさお
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生年月日 | 1907年1月1日 |
出生地 | ![]() (現・長野県飯田市) |
没年月日 | 1978年11月28日(71歳没) |
死没地 | ![]() |
出身校 | 上飯田高等小学校卒業 |
前職 | 駒ヶ根市助役 |
称号 | 勲五等瑞宝章 |
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当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1968年1月29日 - 1976年1月28日 |
座光寺 久男(ざこうじ ひさお、1907年〈明治40年〉1月1日[1][2] - 1978年〈昭和53年〉11月28日[3][4])は、昭和期の地方公務員、政治家。長野県駒ヶ根市長。
来歴
長野県下伊那郡上飯田村[5](現・飯田市[5])で、座光寺和作、ゆきの二男として生まれた[1]。上飯田高等小学校卒業後[1][2][5]、飯田の松濤義塾に学ぶ[1][5]。1924年(大正13年)4月、上飯田町役場に入り[2]、1933年(昭和8年)長野県庁に転じ長野県書記となり[1][5]、学務部社会課勤務、飯田職業紹介所勤務、長野県職業課勤務、知事官房秘書課勤務、下伊那地方事務所兵事厚生課長、同総務課長を歴任した[1][2][5]。1947年(昭和22年)6月、飯田市助役に就任し[1][2][5]、1956年(昭和31年)6月、駒ヶ根市助役に転じた[1][2][5]。
1968年(昭和43年)、駒ヶ根市長選挙に立候補して、無投票で初当選を果たした[6]。同年1月29日に就任した[7]。
1972年駒ヶ根市長選挙
1972年(昭和47年)の市長選は12年ぶりの選挙戦となった[6]。共産党市委員長の新人との争いとなったが、これを破って再選を果たした[6]。
※当日有権者数:20,200人 最終投票率:75.65%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
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座光寺久男 | 65 | - | 現 | 11,160票 | 73.46% | - |
小林幹彦 | - | - | - | 4,031票 | 26.54% | - |
ただ、市長の残り任期1年は入院を余儀なくされ、3選出馬を断念した[6]。1976年(昭和51年)1月28日に退任した[7]。
市長のほかは、伊那谷開発同盟会会長、日本赤十字社長野県支部評議員などを務めた[1]。
1978年(昭和53年)11月28日、脳溢血のため飯田病院にて死去した[4]。
市長として
栄典
著作
- 『病と共に市造り二十年』座光寺久男著書刊行会、1979年。
- みやじま しげる編『座光寺久男遺稿集』座光寺久男遺稿集刊行会、1980年。
脚注
- ^ a b c d e f g h i 『長野県人名鑑』246-247頁。
- ^ a b c d e f 『日本の歴代市長 第2巻』290頁。
- ^ 『信毎年鑑 1980年版 317コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 『伊那 27(1)(608) 27コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e f g h i 『長野県歴史人物大事典』328-329頁。
- ^ a b c d 『駒ケ根市誌 現代編 上巻 161コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 『駒ケ根市誌 現代編 上巻 162コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『日本叙勲者名鑑 昭和39年4月~昭和53年4月 下 341コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
- 『長野県人名鑑』信濃毎日新聞社、1974年。
- 『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
- 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。
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