社中の特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
一茶は自らの庵号を「俳諧寺」と名乗った。しかし他の宗匠とは異なり、庵中に自らも駆け出し時代に務めた執筆を置くことはなかった。その代わり、宗匠の一茶自身が門人のところへ巡回し、俳諧を教えるというスタイルを取った。これは江戸在住時代に房総方面で行っていた俳諧行脚のいわば延長のようなものであった。一茶にとって庵に門人を集めるよりも門人のところを巡回する方が楽であったと考えられ、また門人たちにとっても気さくで楽天的、そして謙虚な一面もあった一茶を自宅に迎える方が良かった。その結果、一茶が郷里柏原に落ち着いた文化10年(1813年)から文政8年(1825年)までを見ると、文政2年(1819年)を除き、在宅している日よりも外泊の方が多い。前述のように文化14年(1817年)まではしばしば江戸や房総方面まで出かけていたことも考慮に入れなければならないが、一年の多くを北信濃各地の門人巡りに費やしている状況が見て取れる。 一茶社中に入門する際の手続きにも特徴があった。他の俳諧結社は格式を重んじ、入門時の持参品が細かく定められているようなところもあったが、一茶社中の場合、「扇代」の名目で少額の入門料が徴収される程度で、厳しい入門規定は特に無かった。 一茶社中の宗匠である一茶の、門人たちに対する態度にも大きな特徴があった。一茶は前述のように浄土真宗の熱心な信者であった。一茶は自らが信仰する浄土真宗においては、師や弟子という言葉は用いず、阿弥陀如来の本願をともに信じる「御同朋」とか、「御同行」という言葉を用いているという例を引いた上で、俳諧も全く同じで、宗匠の一茶と門人は、俳諧の道をともに歩む者という位置づけをした。つまり一茶社中は上下関係が見られず、よく言えば自由闊達な雰囲気であったと考えられる。その反面、一茶社中は組織化がなされず、門人の間ではしばしば内輪もめが見られるなど、結束力が弱かったという大きな弱点を抱えることになった、このことは一茶の作風が個人的資質に大きく頼ったものであったこととともに、門人たちの中から目立った活躍をした俳人が生まれなかった一因となった。
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