社中の地域性と構成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
地域的に見た一茶社中の大きな特徴として、まず一茶が住む柏原には門人がほとんどいなかったことが挙げられる。これは柏原では実弟との財産問題を巡るいざこざ等の影響で、一茶に対する反感があったためと考えられる。また柏原で暮らすようになっても、俳諧師匠として出かけることが多かった一茶は、地元柏原の人たちとの縁が薄かった。一茶自身も地元柏原で門人を得ることに消極的であったと考えられる。 一茶社中の主な拠点としては長沼(長野市)、六川(小布施町)、高山、湯田中などがあった。中でも長沼は元来俳諧が盛んな地であり、一茶社中も20名を超え、優れた門人とされた10名は「長沼十哲」と呼ばれるようになった。 また後述のように一茶社中は北信濃の素封家の集まりで、地域に密着して文化活動を行うといった組織とは異なっていた。他の北信濃の宗匠の中には、親族、隣人を門人として地域密着型の社中を形成していた人物もいたが、一茶社中は北信濃各地に点在する素封家同士を結ぶ、いわば点と線の組織であった。これは地域で生まれ育っていった俳諧組織と江戸帰りで組織を作っていった一茶との違いであると考えられる。 一茶社中の構成員のうち約60名についての身元が判明している。その職業を見ると、豪農、豪商、医師、旅館の経営者、武士といったいわゆる素封家や地域の有力者たちであった。なお、俳号のみが知られ、身元が判明しない門人の多くも豪農であると推測されている。つまり北信濃における一茶の俳諧師匠としての姿は、一面では地域の有力者の家々を羽織を着こなして回る、いわゆる「羽織貴族」の一員であった。 しかし一茶の門人たちである素封家の富は、その他大勢の零細農民の犠牲の上に成り立っていた。当時から一人の成功者の影には20名、30名といった困窮した百姓が生み出されていると、その矛盾を鋭く指摘する声があった。一茶も勝ち組の素封家たちのところを俳諧師匠として巡回しながらも、その陰で零落していった農民たちのことを忘れることはなかった。 白壁のそしられつつも霞みけり 文政2年(1819年)作のこの句は、勝ち組である素封家の富を象徴する白壁造りの建物を、零落した農民たちが恨み、そしっていることを知ってか知らずか、春霞の中に佇んでいると詠んだ。
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