社中結成へ向けての奔走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
文化5年(1808年)の帰省時、一茶は弟との遺産分割交渉の傍ら、精力的に北信濃の各地を回り、一茶社中の結成に向けて努力した。一茶はこの時の帰省で、新町(長野市)、長沼(長野市)そして古間(信濃町)に社中を作っていった。新町の上原文路は薬種商であり、文路宅は長野市方面での一茶の定宿となり、また全国各地との書簡のやり取り等も文路のところを通じてやりとりすることが多くなった。また長沼は後に30名近い門人を擁する一茶社中最大の拠点となっていく。 そして文化5年の帰省時、一茶も選者の一人となった俳額が大俣(中野市)の大富神社に掲げられた。この俳額は残っている一茶撰の俳額の中で最古のもので、北信濃の俳句愛好者の中で一茶の名前が知られるようになってきたことを示している。しかし文化5年の段階では一茶社中が結成中途であるため、俳額に掲載された句の作者の中に、一茶の知人、門人はまだ少数にとどまっていた。
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