眼の描写
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/19 14:46 UTC 版)
「システィーナ礼拝堂壁画修復」の記事における「眼の描写」の解説
批判を浴びている天井画の修復は、陰影が失われて画面の深みがなくなってしまったことだけではない。多くの人物像で、ミケランジェロの絵画作品における重要な要素ともいえる眼の描写が永遠に失われてしまったことも大きな非難の的となっている。通常のフレスコ画であれば、眼は湿式フレスコ技法のブオン・フレスコで描かれることが多い。しかしながら、この天井画の眼の多くは乾式フレスコ技法であるフレスコ・セッコで描かれていたため、修復作業によって除去されてしまったのである。システィーナ礼拝堂の天井画で眼の描写がいかに重要なのかは、作品中もっとも有名な「アダムの創造」で顕著である。アダムの眼は神を見つめ、神の眼はまっすぐにアダムへと向けられている。神の左腕の下に守られるかのように座っているイヴは、未来の夫たるアダムを横目ながら憧れの眼差しで眺めている。 ミケランジェロは人物像の顔を描くときに、視線に大きな意味をもたせていた。修復後に、ルネットに描かれているゼルバベルの一族の眼窩や、アミナダブのルネットに描かれている男性の眼窩は空っぽになってしまった。眼の描写が失われてしまった人物像は多いが、なかでももっとも非難を浴びているのはエッサイのスパンドレルに描かれている緑色と白色の衣服の小さな女性像である。 決して色あせることなく、時代を超えて刺激的なものを見たことがあるだろうか。システィーナ礼拝堂こそがまさにその典型例だったが、化学処理によって聖性が失われ、話にならないほどに場違いな代物と化してしまった。……ミケランジェロの意図に反した修復を行った修復チーム、化学者の責任に帰するものである。(修復チームの責任者)コラルッチが、ミケランジェロは多色使いの画家であり、ポントルモやロッシと同じ傾向を持つと解説できたところで何になるというのか。彼(コラルッチ)の仕事は問題となっている箇所を確認し、保全することだったはずだ。修復前後の写真を比較すると、コラルッチがフレスコ・セッコで描かれていた部分を除去してしまい、まるで未完成品のような薄っぺらい作品にしてしまったのは明らかだ。不注意な一度の修復作業で、画家(ミケランジェロ)の作品の大部分が台無しになってしまった。 — ピーター・レイン・アルギンボー リチャード・セリンは『欺瞞と罪、ジャンルイージ・コラルッチのシスティーナ礼拝堂修復』というエッセイで、次のように記している。 素晴らしい(といわれている)修復作業によって、ミケランジェロが描いたフレスコ画は永遠に失われてしまった。もとに戻すことはもはや不可能である。我々にできることは、非難の声を風化させないために、ヴァチカンの修復責任者たちに説明責任を果たすよう要求し、記録することだけだ。 — リチャード・セリン
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