真相を巡る議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 23:28 UTC 版)
統制派はこの事件をクーデター計画を未然に防ぐのに成功したのものだとしていた。その一方で皇道派は、統制派による陰謀であると主張していた。 大谷敬二郎は戦後の著書において、「わたしは、青年将校弾圧のために、デッチ上げられた架空のクーデター企図だったと信じている」と述べている。 皇道派の擁護者であった岩淵辰雄は、永田鉄山(当時陸軍省軍務局長)と東條を黒幕とする省部、士官学校、憲兵隊の統制派将校が、士官学校の候補生を扇動して重臣らを殺害させ、その責任を教育総監の真崎甚三郎ら皇道派になすりつけようとしたと主張している。士官学校の生徒がその陰謀に乗らなかったので、事件を直接画策した片倉と辻が、皇道派青年将校や士官学校の生徒の不穏計画として密告し、士官学校の直接監督の地位にある教育総監の責任を問わんとしたと説明している。歴史家の高橋正衛も、岩渕が皇道派の立場に立っていると断った上で、この説が一番真相に近いのではないかとしている。高橋が田中清から聞いた話によると、11月20日に兵要地誌班の部屋で田中が池田純久と雑談していたところに片倉が飛び込んできて、「やった、やった、スパイを使ってやった」、「村中、磯部をやった、これから大臣に報告にいく」と言って部屋を出た。20分ぐらいして戻っていた片倉は「さっきの話は聞かんかったことにしてくれ」と頼み込んでいる。 秦郁彦は、「悪意の有無はともかくとして、実行計画の部分については、刑事事件にはなりがたい「砂上楼閣」的クーデターであった」と述べている。 片倉は自著において「よく永田鉄山軍務局長の指示により、私と辻とが謀議して事件をデッチ上げた、といわれるが、私は参謀本部部員であり、永田軍務局長は陸軍省の所属である。職務上、私は永田の指示や命令を受ける立場にはなかった。もちろん永田鉄山という人間は、私が陸軍大学校学生時代に知り、その後も、外から遠く見ていたことは事実であるが。このように、永田が私を使ったという事実は全くないが、私が辻を使ったというのであれば、見方によって、ある程度やむをえない。しかしながら、使ったというよりも、辻が私に報告をし、それを私が処理したといった方が適切であると思う。」と述べ、自分は参謀本部における国内情勢の担当主任者として当然の措置をとったのであり策略というようなものではなかったとしている。 原田熊雄によると、永田鉄山に電話で問い合わせたところ、永田は「今度の事件は、軍も徹底的にやる」「外部の応援をたのみ、北一輝、西田税を捕えねばならん、事件を明るみに出して、立派に処理する」と言明したと記録している。
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