百官を整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:41 UTC 版)
同月、丞相始め七公を設置し、嫡男の劉粲を丞相・領大将軍・録尚書事に任じ、晋王に進封して五郡を食ませた。江都王劉延年を録尚書六条事、汝陰王劉景を太師、王育を太傅、任顗を太保、馬景を大司徒、朱紀を大司空、劉曜を大司馬にそれぞれ任じた。輔漢・都護・中軍・上軍・輔軍・鎮衛・鎮京・前軍・後軍・左軍・右軍・下軍・輔国・冠軍・龍驤・武牙の十六大将軍を設置し、各々2000の兵卒を配備し、全て諸子を任命した。また、左右の司隷を置き、各々に20万戸の領民を領させ、1万戸毎に内史を一人置いた。単于左右輔を置き、各々に夷狄10万落を領させ、1万落毎に都尉を1人置いた。左右選曹尚書を置き、選挙を掌握させた。以上の司隷以下6官について、その位は僕射に準じることにした。 また、劉易を太尉に任じ、始めて相国の位を設置し、七公で勲徳のあった者が亡くなった際に贈ることとした。さらに、御史大夫及び州牧を置き、位は公に等しいものとした。 5月、劉曜と趙染が長安攻略に向かった。6月、劉曜が再び渭水に赴き、趙染は新豊に拠った。索綝が兵を率いて迎え撃つと、趙染は敵を軽んじており、長史魯徽は諫めた。趙染は取り合わず、精騎数100を率いて迎撃したが敗れて帰還し、恥と悔しさの余りに、魯徽を処刑した。劉曜はこれを聞いて大いに嘆いた。 劉曜と趙染が将軍の殷凱と共に数万の兵を率いて長安に向かうと、雍州刺史の麹允が馮翊で迎撃したが、敗れて撤退した。しかしその夜、麹允が殷凱の陣営に夜襲を掛け、殷凱は敗死した。劉曜は軍を戻して懐城の郭黙を攻め、米粟八十万石を収めてから三屯を連ねて包囲した。郭黙は食糧が尽きると妻子を人質に送って投降する旨を伝え、食糧を求めた。漢軍が郭黙に食糧を提供すると、郭黙は再び城門を閉じて城を守った。激怒した劉曜は郭黙の妻子を黄河に沈めると、攻撃を再開した。だが、劉琨が派遣した参軍張肇が鮮卑500騎余りを率いて到来した。また、劉聡が使者を派遣して劉曜へ「長安はひとまず置いておくのだ。晋陽の劉琨こそ国家にとって先に除くべきものである。郭黙などは小醜に過ぎず公の神略を労する必要はないので、征虜将軍・貝丘王劉翼光を留めて包囲させ、公は帰還するように」と伝えたために、劉曜は蒲坂に兵を戻したが、劉聡はこれを招集して輔政させた。趙染が北地を攻めたが、城を攻める最中、矢に当たって戦死した。 11月、劉粲を相国に任じて百揆を監督させ、丞相の位を撤廃して相国と統合した。 太廟が完成すると、境内に大赦を行い、建元と改元した。
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