百姓としての庄松
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:44 UTC 版)
本庄藩藩祖である小笠原信嶺の家臣小林庄太夫が祖であり、小笠原家が慶長17年(1612年)に下総国古河藩に加増移封された際、小林家は本庄に残り、世々農業を営むようになった(従って庄松は本庄藩士の末裔である)。米穀商となり、二木屋を営んだ小林家は上野国那波郡蓮取村知行の旗本駒井氏の財政を支えていた。駒井氏が庄松に宛てた文化3年(1806年)の借金証文には625両(現在の価値にして約3125万円)とあり、その後も駒井氏の借金は続いた。庄松の没後、数年で家屋敷は旅籠屋の菊屋の手に渡ったとされる。 戸谷半兵衛家や森田豊香らと言った本庄宿の大豪商達の存在によって目立たない存在となっているが、1800石取の旗本である駒井銀五郎の財政を1人で支えていた事からも分かる通り、有力な豪商の1人である。ちなみに2代目庄松は武術を継がず、駒井氏との縁も切っている。2代目庄松は駒井氏に対して訴訟も起こしているが、当時の武士は借金を踏み倒す性分にあり、結局、訴えは通らなかった。
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