百姓息子として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 04:55 UTC 版)
1895年7月、愛知県中島郡稲島(現・稲沢市)の農家の三男二女の二男として生を受ける。幼名は棄逸、捨一と書いて”すていち”、これは父42歳、母33歳の厄年産まれのために、当時の慣習に従って鎮守社へ捨てられたことに由来している。この頃、長男にあたる兄は、既に長崎県対馬竹敷の禅寺で住職を営む叔父(父の末弟にあたる)の養子となっており、小学校へは1901年(明治34年)4月に入学したが、その翌年には2歳年下の三男も名古屋の扇子屋に貰われたために跡継ぎとなった。 しかし、宗厚が小学3年のとき、住職の叔父が帰郷した際に父と引取り方について相談が成された。当時の宗厚は学業に強い関心を抱いていたが、産まれた妹の子守を頼まれ机を取り上げられていた事に不満があったために、叔父の「中学校にも出してやるが!」の一言により、衝動的に住職の叔父のもとに身を寄せることを決めた。
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