白神 (敷設艇)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/29 17:31 UTC 版)
艦歴 | |
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計画 | ③計画 |
起工 | 1937年9月3日 |
進水 | 1938年6月25日 |
就役 | 1939年4月25日竣工 |
その後 | 1944年3月5日戦没 |
除籍 | 1944年5月10日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:720トン、公試:750トン |
全長 | 74.70m |
全幅 | 7.85m |
吃水 | 2.60m |
機関 | マン式三号ディーゼル2基2軸 3,600馬力 |
速力 | 20.0kt |
航続距離 | 14ktで2,000浬 |
燃料 | 重油:35トン |
乗員 | 74名 |
兵装 | 40mm連装機銃1基2挺 13mm連装機銃1基2挺 爆雷36個、捕獲網8組 (もしくは九三式機雷120個) |
白神(しらかみ)は、日本海軍の敷設艇。測天型敷設艇の2番艇。
艦歴
1939年(昭和14年)4月25日、東京石川島造船所にて竣工、横須賀鎮守府に籍を置く。
太平洋戦争開戦時は大湊警備府大湊防備隊に所属し、同所を中心に北方方面の哨戒、船団護衛、機雷敷設などに従事する。1942年(昭和17年)11月17日、宗谷方面部隊となり連絡船の護衛に従事する。26日津軽部隊となり28日大湊に到着。
1943年4月3日、八戸沖で水偵が油紋を発見して爆弾を投下[1]。次いで「白神」と特設駆潜艇「文山丸」が爆雷攻撃を行った[2]。この攻撃でアメリカ潜水艦「ピカーレル」を撃沈したかもしれない[2]。
1944年(昭和19年)3月3日、荒天の中得撫島南方にて「日蘭丸」と衝突し大破口を生じるが曳航不能となり、3月5日に船体が切断して沈没した。5月10日に除籍された。
歴代艇長
- 艤装員長
- 鈴木重 少佐:1938年12月15日[3] -
同型艦
脚注
- ^ 潜水艦攻撃、65-66ページページ
- ^ a b 潜水艦攻撃、66ページページ
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
参考文献
- 雑誌『丸』編集部『写真 日本の軍艦 第14巻 小艦艇Ⅱ』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0464-4
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』朝雲新聞社、1969年。
- 木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』光人社、2000年、ISBN 4-7698-2289-8
「白神 (敷設艇)」の例文・使い方・用例・文例
- 白神山地を破壊から守れと熱弁をふるって, 彼は環境保護論者のために万丈の気を吐いた.
- ブナの芽吹きとともに,白神山地に登山のシーズンがやってきた。
- 白神山地は世界遺産地域の1つである。
- 町の職員は「駒ケ岳まで新ルートに沿ってブナの新緑を楽しみ,下りで前のルートをたどって田(た)苗(な)代(しろ)湿原に立ち寄るのもよい。小岳からは白神山地を一望できる。新ルートは特に高齢者にお薦めできる。」と話した。
- 白神山地世界遺産センターの斉藤栄(え)作(さ)美(み)さんは登山者に,注意深く登山を計画し,出発前にセンターで山の状態の情報を得るようアドバイスしている。
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