白山城の築城と利用とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 白山城の築城と利用の意味・解説 

白山城の築城と利用

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/10 15:49 UTC 版)

白山城 (甲斐国)」の記事における「白山城の築城と利用」の解説

甲斐国志』に拠れば白山城は「城山」と呼ばれ甲斐源氏の祖・源清光の子である武田信義要害として築城したとしている。信義の子である武田信光の子孫・武信時系統巨摩郡武川筋土着し、戦国期には在郷武士団である武川衆登場する。『寛政重修諸家譜によれば白山城武川衆一族である青木氏領有し武田信縄から信虎・晴信に仕えた八代信種が「鍋山城」を守備し、これが白山城にあたると考えられている。後に青木氏から別れた山寺氏が領したという。 一方で中世期文書記録史料には白山城に関するものは見られず、もっぱら近世期地誌類や家譜などに見られる寛永20年1643年)『寛永諸家系図伝』、寛政3年1791年)『寛政重修諸家譜所載青木・山両氏家譜においては戦国期武川衆青木・山両氏武田氏から「鍋山の砦」の守備任されたとしている。 『裏見寒話』では、武田八幡宮の南に「鍋山八幡」の存在記している。『裏見寒話』では「鍋山八幡」を源為朝伝説付会した説を取り、これは白山神社為朝神社比定される可能性考えられている。 戦国期天正10年1582年3月織田徳川連合軍武田侵攻により武田氏滅亡し武田勝頼新府城退去し家臣小山田信茂郡内領へ逃れる途中に、田野甲州市大和町)において滅亡した同年6月本能寺の変織田信長死去する甲斐信濃武田遺領を巡る天正壬午の乱発生し甲斐では三河国徳川家康新府城本陣七里岩台上布陣し若神子城本陣を置く北条氏直対峙した。天正壬午の乱において武田遺臣一部徳川家康臣従し、白山城には武川衆青木氏山寺氏が配置され諏訪口の監視行った白山城天正壬午の乱において修築されていると考えられている。 江戸時代初期寛文年間1661年-1673年廃城となった

※この「白山城の築城と利用」の解説は、「白山城 (甲斐国)」の解説の一部です。
「白山城の築城と利用」を含む「白山城 (甲斐国)」の記事については、「白山城 (甲斐国)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「白山城の築城と利用」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「白山城の築城と利用」の関連用語

白山城の築城と利用のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



白山城の築城と利用のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの白山城 (甲斐国) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS