発展的消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 04:34 UTC 版)
ここにとどめを刺したのが、581年に北周皇室の外戚であった楊堅が禅譲を受けて隋を建て、中国統一に乗り出したことである。8年後の589年に南朝の陳は隋の猛攻の前にあっさりと滅亡し、中国は約270年ぶりに統一されることになった。 この統一により南北を隔てていた政治的な壁は一気に取り払われ、南北の文化交流が雪崩をうって開始された。以前から垢抜けない自分たちの文化に劣等感を持ち、南朝の文化に憧れていた北朝側の人々はこれを好機と南朝側に急接近し、南北の文化は発展的に融合して行くことになった。特に第2代皇帝・煬帝は南北を貫流する運河を造営しており、この頃までには南北の文化は完全に融合していたと考えられている。 その中で、楷書も融合の対象となった。六朝楷書と同時期、南側でも隷書の走り書きにより成立した行書が整えられて発生した原初的な楷書が、南朝につながる東晋の王羲之や王献之によって行書とともに書道の一書体として定着し、既にその時点で一つの書体として完成されていたからである。 両者は発生経路(南朝=隷書→行書→楷書、北朝=隷書→楷書)も発達経路(南朝=書道の書体として発達、北朝=漢字受容のうちに自然発達)も異なり、それぞれ単独の存在ではあったが、その書風の近似性は融合を招くだけの親和性を充分に持っていた。さらに上記の通り隋以前より南朝の書法は北朝側にある程度知れており、最末期には大きな影響を与えるほどであったため、南北統一により一気に両者の融合が進み、六朝楷書は筆法や書法など技巧面で融合して発展的に消滅することになったのであった。 しかしそのように楷書成立の片棒を担いだ存在でありながら、六朝楷書の過去の書蹟はあくまで「異民族王朝の書蹟」扱いされてこれ以降注目されることがなくなり、忘れられたまま長い眠りにつくことになる。
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