町の創設まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 02:47 UTC 版)
この集落は、1246年に Amelradorf として初めて文献に記録されている。集落名の規定語は、おそらく Amelrad という女性の名前である。この名前の人物が集落の建設者であるとされている。この集落は、1414年には Ammerdorff と呼ばれており、1438年に初めて現在の形である Ammerndorf となった。 ニュルンベルク城伯コンラート1世は、ハイルスブロン修道院(ドイツ語版、英語版)との長い闘争の末、所領と民衆を放棄した。教皇インノケンティウス4世は1249年に修道院の所領であることを確認した。アンメルンドルフでは周辺集落の穀物の取引が行われた。第一次辺境伯戦争(1449年 - 1450年)でこの集落は、大量の穀物を所蔵していたために、帝国都市ニュルンベルクの襲撃を受けた。 18世紀の終わり頃、アンメルンドルフには47戸があった。高等裁判権は、ブランデンブルク=アンスバッハ侯領のオーバーアムト・カードルツブルクがこれを行使した。行政権は、ブランデンブルク=アンスバッハ侯領のハイルスブロン修道院事務局、土地所有者はハイルスブロン修道院事務局とカステンアムト(財務局)・カードルツブルクであった。 アンメルンドルフは、1500年からフランケン帝国クライスに属していたアンスバッハ辺境伯領から1791年にプロイセン領となり、多くの独自の権利を伴う市場開催権を有していた。アンメルンドルフはプロイセン王国のアンスバッハ侯領の一部として、パリ条約(1806年2月)に基づく領土交換により、バイエルン王国領となった。 市町村令に伴い、1808年にシュトイアーディストリクト(徴税区)・アンメルンドルフが創設され、ブーベンミューレ集落がこの徴税区に属した。同じ年にルーラルゲマインデ(町村にあたる)・アンメルンドルフが創設されたが、その範囲は上記の徴税区と同じであった。このゲマインデは、行政と裁判はカードルツブルク地方裁判所、財政はレントアムト・カードルツブルク(1920年にフィナンツアムト・カードルツブルクと改名)の下に置かれた。アンメルンドルフは、1862年からベツィルクスアムト・フュルト(1938年にフュルト郡に改名)により行政運営がなされた。裁判権は1879年までカードルツブルク地方裁判所に残されたが、1880年から1931年3月1日までカードルツブルク区裁判所が、それ以後はフュルト区裁判所がこれを管轄した。1929年1月1日にフィナンツアムト・フュルトが財務行政を引き継いだ。
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