王母
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 05:16 UTC 版)
セシリーがロンドンのベイナード城に移ると、そこがヨーク派の作戦本部になった。長男エドワードはうまくランカスター派に対する戦いを続け、ランカスター派を打ち破ってエドワード4世として即位した。セシリーは王太后になった。 エドワード4世の統治の初期には、セシリーは息子の横にあって影響力を行使した。1461年、彼女は紋章を修正した。これは夫が正当な国王であったことをほのめかすために、イングランドの王室の紋章を取り入れたものである。エドワード4世がエリザベス・ウッドヴィルと結婚した時、彼は母が住み慣れた場所に住み続けられるよう、王妃のために新しく居館を建てた。 1469年、セシリーの甥(兄の子)であり、息子のクラレンス公ジョージの義父でもあるウォリック伯リチャード・ネヴィルが国王に反旗を翻した。ウォリック伯は「エドワード4世は私生児であり、本当の父親はルーアンのベンバーンという名前の弓の射手であった」という噂を広め始めた。ウォリック伯は、正統な王位継承者はクラレンス公であるとしたかったのである(もっともウォリック伯は以前にマーガレット・オブ・アンジューに対して似たような非難をしており、後にウィリアム・シェイクスピアは『リチャード三世』の劇中でこのクレームを使っている)。セシリーがこの問題についてほとんど人前で語らなかったため、真偽が定かでなかったにもかかわらず、彼女は姦通の罪で告発された。 ウォリック伯の反乱に対してセシリーは、多分関係者を和解させようとして、サンドウィッチを訪問した。また、反乱が最初に失敗した時、セシリーはエドワード4世とクラレンス公兄弟を和解させるため、共にロンドンに招待した。平和は長くは続かなかったが、次の戦争の時にも、彼女は息子たちを和解させようとしている。 1483年にエドワード4世は亡くなり、孫エドワード5世が短期間在位、彼を廃位した末子がリチャード3世として即位したが、1485年、ボズワースの戦いでリチャード3世が敗死し、ボーフォート家の血を引くヘンリー7世が王位に就いた。翌1486年にヘンリー7世はセシリーの孫娘でエドワード5世の姉エリザベス・オブ・ヨークを王妃にした。ヘンリー7世の時代、セシリーは宗教活動に献身し、この時の活動から「信心深い」というイメージが定着することになる。 セシリーは1495年に亡くなった。ローマ教皇による免罪と共に埋葬された。
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