狭山コースの開場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 00:06 UTC 版)
「東京ゴルフ倶楽部」の記事における「狭山コースの開場」の解説
1940年(昭和15年)、朝霞コースが陸軍予科士官学校用地に決まった。同年10月、東京ゴルフ倶楽部は、埼玉県入間郡柏原村1984番地(現・狭山市柏原)の秩父カントリー倶楽部と対等の条件での合併契約書を取り交わし、同年11月20日、東京丸ノ内の東京会館で新「東京ゴルフ倶楽部」創立総会を開催した。理事長に旧東京ゴルフ倶楽部の後藤文夫が就任した。 同年12月15日、かねてから造成中だった18ホール規模の「秩父新コース」が完成し、開場式を行った。コース設計は大谷光明が、工事は安達商会が行った。これが現在の東京ゴルフ倶楽部のコースである。南コースとも、柏原コースとも称された。 戦時中は農作物の畑となり、日本陸軍の天祥部隊に接収された。また、倶楽部の名も「東京打球会」と改めさせられた。終戦後の1945年(昭和20年)8月19日から10月1日にかけ天祥部隊が、同年9月25日、陸軍士官学校がそれぞれ撤収した。同年9月30日、9ホールを再開したが、10月2日、米進駐軍第97歩兵部隊が来て、クラブハウスを宿営に借上げると通告。当初はコースの使用は妨げないとのことだった。同年11月2日、米進駐軍により、クラブハウスに米国旗が掲揚され、開場式が行われた。1946年(昭和21年)4月9日、朝霞駐屯の第1騎兵旅団によりコース全域を接収される。 1950年(昭和25年)9月25日、横田航空隊によって再接収され、倶楽部玄関には「Yokota Golf Club」の看板が掲げられた。 1953年(昭和28年)、米軍管理の他のゴルフ場とともに接収を解除され、倶楽部の自主運営を果たした。 この間の1949年(昭和24年)9月、戦争末期に解散されていた関東ゴルフ連盟が復活、東京ゴルフ倶楽部も加盟した。 1955年(昭和30年)、「社団法人東京ゴルフ倶楽部」が発足し運営に当たっている。1963年(昭和38年)、東京ゴルフ倶楽部創立50周年記念事業として、アントニン・レーモンド設計のクラブハウスが完成した。 東京ゴルフ倶楽部は、駒沢コース・朝霞コース・新秩父コース・狭山コースと合わせ、日本オープンゴルフ選手権競技大会の通算7回の開催実績があり、2024年(令和6年)に8度目となる日本オープンゴルフ選手権競技を開催予定である。大谷光明のレイアウトは現在も基本的に引き継がれている。
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