特殊潜航艇による攻撃の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 18:57 UTC 版)
「横山正治」の記事における「特殊潜航艇による攻撃の状況」の解説
1941年(昭和16年)11月18日朝、伊号潜水艦5隻(「伊二二」「伊一六」「伊一八」「伊二〇」「伊二四」)に乗組み、呉軍港を出航、瀬戸内海の魚雷実験場にて、5隻それぞれに特殊潜航艇(以下「特潜」 )を搭載。(搭乗した「特潜」は、全長24m、直径約2m、魚雷2弾。) 12月6日深夜、5隻が真珠湾より10マイル近辺の位置に待機。 12月8日、太平洋戦争勃発。その緒戦であるハワイの真珠湾攻撃に際し、特別攻撃隊に参加。同日未明、同乗の上田定(かみたさだむ)二等兵曹とともに、二人乗りの「特潜」をもって他の四艇の先頭を切って母潜伊一六を発進、潜望鏡と海図を基に航海し、真珠湾口に到着、岩佐艇はさらに湾内侵入に成功した。 日本海軍航空部隊の爆撃開始とともに、「特潜」による攻撃を開始。岩佐艇は発見され撃沈。湾口に脱出してきた軽巡洋艦「セントルイス」へ魚雷を発射した(周辺のサンゴ礁に当たり命中せず)潜航艇があり、これが横山艇ではないかともされており、母潜へわずか二文字の「キラ(トラトラトラの「ト」を打ち間違えたと考えられる)」を電信したとも伝えられる(母潜が受信したのは、航空隊が発信したものが幾つもの小型基地局を経由して転送されてきた後の暗号電文ではないかとする説もある)。湾外に出てきた他の駆逐艦も加わって爆雷攻撃を受け、再浮上することなく撃沈されたとされる。戦死(享年23)。戦艦「アリゾナ」撃沈は飛行機からの攻撃によるものだったにもかかわらず、日本国内での宣伝では横山艇の手柄とされた。これをもって海軍中尉から海軍少佐となったが、進級制度が改訂されて初の二段飛びであると同時に、従七位より従六位に叙せられ、また、講道館は横山を柔道二段より飛び越しで柔道四段を贈った。
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