牧場経営・多額の借金の返済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:34 UTC 版)
「中川イセ」の記事における「牧場経営・多額の借金の返済」の解説
1926年(昭和元年)に中川家により網走に呼び戻され、夫婦で牧場を営んだ。しかし1928年(昭和3年)に夫の父が死去、14万円の借金が残った。労賃日給1円、そば・うどんが10銭、月給100円以上を得る者は網走でわずか3人という時代であり、網走で一番の借金額であった。全財産を処分して返済にあてようにも、6万円程度が限度だった。そこで中川は札幌へ向かい、銀行の頭取に直談判して熱弁を振るい、50年月賦で返済すると約束した。当時の人間の平均寿命は50歳といわれ、50年もの月賦は前代未聞であった。以降は返済のため、牧場仕事で夫から乗馬の特訓を受け、牧場に加えて馬喰(馬の仲介業)、家畜市場の開催、生命保険の代理店などの仕事を必死にこなした。 やがて時代は戦中に突入。当時の日本軍は依然として軍馬を兵器として重用しており、戦争拡大に伴って軍馬の需要が増え続けていため、軍馬の価格は農耕馬の3倍から4倍にもなり、網走では馬産が盛んになった。中川らの仕事もまた、軍馬に比重が置かれるようになった。中川は牛馬を扱う農家の女性たちを100人以上集めて愛馬婦人会を結成、自ら会長を務め、軍馬の育成、軍馬購入の助力、馬の飼料を運んで旭川の第7師団の慰問などを行なった。中川の商売は日本軍からも好評を得、軍曹待遇までされ、中川は慰問の際も「中川軍曹」と名乗って敬礼しつつ検問場を通っていた。軍馬での収入により鉱山や土地も手に入れた。1932年(昭和7年)には中川の牧場から市場に出した馬7頭がすべて審査をパスし、軍馬として買い上げられ、しかも成績優秀として日本軍から激賞された。この際は中川夫妻のみならず、網走の馬産業関係者たちも、馬産地としての網走の名誉として喜びに沸いた。1軒の牧場の馬7頭の同時合格は前代未聞とされ、新聞各紙でも大々的に報道された。1941年(昭和16年)には興亜馬事大会で国策への協力を表彰され、中川の乗馬姿が全国紙に大きく掲載された。後に数えきれないほどの表彰を受ける中川の、最初の表彰であった。 戦後は軍馬の需要は縮小したが、食糧事情が悪くなったため、軍馬に替って農耕馬の需要が急増した。これにより中川の牧場は戦中よりもさらに多忙を極め、依然として商売は繁盛の一方であった。戦後インフレにより金銭の値打ちが下がったことも、借金返済の手助けとなった。 借金を毎月払い続けた末、最終的に返済を終えたのは1947年(昭和22年)のことである。巨額の借金を約束の約3分の1の年月で完済できたことは、網走中の話題となった。
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