父・長谷川渓石
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長谷川渓石(1842年(天保13年) - 1918年(大正7年)7月30日、本名深造)は、呉服商の子に生まれた。幼名は虎太郎。家業を嫌って千葉周作の道場で剣術を学び、浮世絵師歌川国芳に絵の手ほどきを受けた。維新では開城された江戸城で官軍として守備に就いた。吹上藩士7名が重臣を殺害した罪で割腹を命じられた際、介錯人の一人として人首を断ち、正親町三条実愛刑部卿より報奨を得る。 明治2年に刑法官を任じられて刑部省に入り、明治10年に退職、明治12年に無試験免許代言人となる。吉原の改革に尽力した松本新造の使い込み事件での弁護や、娼妓自由廃業で楼主側の支援がある。初期自由党にも参加した。また東京市会議員もつとめた。東京市水道部主査を兼任していたことから、汚物処理請負業者や水道管納入業者からたびたび賄賂を受け取っていた不正が発覚し、収賄罪で逮捕された。また、月島の借地権の売買転貸不正事件にも連座した。交友関係に星亨、鵜沢総明、小室信夫らがいる。 嘉永頃から明治初めまでの24年に渡り、江戸市中の出来事や風俗を描いた150図があり、時雨がこのうち50図を一周忌に『実見画録』として刊行(2014年『江戸東京実見画録』として岩波文庫)、また『旧聞日本橋』単行本化に際して挿絵として使われた。また本名での著書『改正訴訟入費償却規則』(1876年)もある。
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