父・赳夫が首相としてできなかったこと
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:06 UTC 版)
「福田康夫」の記事における「父・赳夫が首相としてできなかったこと」の解説
福田康夫が首相に就任し、日本初の親子総理が誕生したが、その際、父赳夫が首相としてできなかったこととして注目されることがある。一つ目はサミットの議長、二つ目は解散総選挙である。父赳夫は1979年に日本の首相としてサミットの議長を担うことが予定されていたが、1978年の自民党総裁選で政敵である大平に敗北し、サミット議長も解散総選挙もできないまま総理総裁から退くのを、息子である康夫は首相秘書官として間近で見ていた。なお、息子である康夫は2008年7月にサミットの議長を務め、父の念願の夢を果たした。しかし、解散総選挙はできないまま2008年9月に総理を退任した。
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