災害伝承と報道
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「平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害」の記事における「災害伝承と報道」の解説
八木には「蛇王池物語」という伝説がある。関ヶ原の戦いのあとに廃城となるまで、現在の安佐南区には安芸香川氏の八木城があった。城主香川光景のころ、香川勝雄なる剛勇の士が、阿武山の中迫という場所にいた大蛇を退治すると、その大蛇の首が転がり落ち血が川のように流れ、ついに沼ができて首が沈んでいったという言い伝えである。八木三丁目には蛇王池の碑が建立されている。地元小学校のホームページなどでも紹介されているが、災害以前まではあくまで伝説として紹介され、災害との関連性には触れられていなかった。 これについて災害発生当時以下のように報道された。 8月26日情報番組『とくダネ!』報道によれば、かつて一帯が「蛇落地悪谷」(じゃらくじあしだに)と呼ばれていたと住民の1人は話し、別の住民は「蛇が降るような水害が多かったことから、悪谷と呼ばれていたそうだ」と話した。 8月27日付『産経新聞』コラム『産経抄』にも同様の内容が掲載された。 9月4日付『THE PAGE』では、『とくダネ!』の「蛇落地悪谷」報道を紹介し、蛇落地から「上楽地」に替わったと報道された。上楽地の地名は古い地図では昭和40年代まで残り、浄楽寺の先代住職が蛇落地伝説を伝承し、地域の小学校の記念誌にも寄稿していることが報じられた。 9月22日放送『NNNドキュメント 山津波 宅地開発の死角 広島土砂災害の教訓』(広島テレビ放送製作)では、大蛇の首が落ちた地を「蛇落地」と呼び、のちに「上楽地」に変わったと報じられた。 なお広島市郷土資料館や安佐南区役所は、報道に対し「蛇落地」「悪谷」が存在したことを示す資料はないと回答している。「上樂地」の地名は1897年(明治30年)ごろ、1925年(大正14年)、1977年(昭和52年)の旧陸地測量部(現・国土地理院)の地形図で確認することができる。今回最大の土砂災害が起きた八木三丁目県営緑丘住宅周辺は上楽地ではなく「小原」と呼ばれていた。 これらの報道があった後である9月22日から10月3日に行われた市による安佐南区・安佐北区被災地住民アンケートで、祖先の言い伝えとして蛇に関することを回答したものもいる。 八木の阿武山にはオロチがいて、太田川に水を飲みに来る(ヤマタノオロチ#解釈も参照)。 八木の龍華寺は蛇伝説があり、蛇は川とつながりがある。 (長束の)平原地区では昔「ジャヌケ」があった。 昔大きな災害があり「蛇抜け」と呼ばれる地区がある。 50年から100年に一度蛇抜けがあるので気をつけること。 また緑井八丁目上組は昔「植竹」と呼ばれており、これも土砂災害に関連する地名であると指摘されている。植竹の地名は1925年(大正14年)旧陸地測量部地形図で確認することができる。ここには「1804年夏に緑井村植竹山の土砂崩れで八木用水が埋もれた」という記録が残っており、緑井八丁目が少し台地状になっているのは土石流の堆積によって形成されたと考えられている。
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