濃飛電気設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 14:31 UTC 版)
名古屋電灯では上記疑獄事件に関与していた元名古屋市長の加藤重三郎が1911年より社長であったが、事件後は常務に復帰していた福澤桃介が社長代理となり、1914年(大正3年)12月には社長に就任した。疑獄事件関係者には没落した人物が多かったものの、兼松は福澤傘下の人物として復活を果たす。1918年(大正7年)12月、監査役として名古屋電灯に復帰したのである。その後取締役に転じ、1921年(大正10年)10月に名古屋電灯が関西水力電気に合併されて関西電気(翌年東邦電力へ改称)となった後も引き続き取締役を務めたが、同年12月福澤が社長を退任するに及んで兼松も取締役を辞任した。 1921年3月、岐阜県を流れる根尾川における水力開発を目的に資本金300万円で濃飛電気が設立されると、その専務取締役に就任する。同社は福澤桃介系の会社で、後に兼松が社長となっている。同社は1923年(大正12年)3月に長島発電所(現・中部電力根尾発電所、出力4,050キロワット)を建設し、地元や東邦電力への供給を開始。次いで兼松が社長を兼ねる傍系会社大白川電力を通じて岐阜県北部庄川水系の大白川の開発に着手し、平瀬発電所(出力11,000キロワット)を建設した。 濃飛電気は1928年(昭和3年)7月、三重県や徳島県に供給区域を持つ電力会社三重合同電気(社長太田光熈)と合併する。兼松は同年8月三重合同電気の副社長に就任し、合同電気への社名変更を挟んで1930年(昭和5年)7月まで在職した。
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