滇の征服とは? わかりやすく解説

滇の征服

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 23:51 UTC 版)

漢の南方拡大」の記事における「滇の征服」の解説

詳細は「漢の滇征服」および「滇」を参照 雲南の滇に対する漢の遠征は、紀元前135年の唐蒙によるものに始まる。滇は家畜や馬、果実奴隷などの交易携わっており、その利益金属製品技術が漢の興味を引くことになった。漢軍は滇から漢全土に至る交易路切り開き、そこから北上して付近地域征服した。 しかし北方西方での漢と匈奴との戦争激化すると、辺境統治コストかさんだ漢は、蜀の郡を放棄した。また滇を訪れた漢人一団4年にわたり捕らえられる事件起こった。この漢人は、122年中央アジアとの交易路開拓目指し匈奴避け南方回っていた者たちであった紀元前109年武帝は滇を征服し益州郡置いた考古学調査では漢で刻まれた滇王の璽が見つかっており、このことから滇が漢に降伏し属国となっていたことが分かる。滇はたびたび漢に反乱したが、その都度鎮圧された。最初反乱紀元前86年から紀元前83年におこり、また紀元前28年から紀元前25年にも蜂起があったが牂牁郡太守鎮圧された。王莽帝位簒奪し新を建設してからも、西南地域緊張状態続いていた。王莽不穏な状況打開するために遠征軍派遣したが、兵の7割が病死した。また10万人の兵と2倍の補給物資による2度目遠征も、大きな成果得られなかった。42年から45年176年にも反乱があった。 後漢明帝時代在位57年75年)に対外拡張策を取った69年現在の雲南省保山市にあたる地域新たに永昌郡設置された。また越巂郡西方にいた滇族が114年に漢に服属した。 桓帝在位146年-168年)は、雲南の滇族の中国化進めた長年にわたり不穏な状態が続いていたとはいえ結局滇は次第に漢に吸収されていった。かつて滇王国があった地には、低地から多く漢人入植した。滇族は漢族同化し、12世紀ごろに消滅した

※この「滇の征服」の解説は、「漢の南方拡大」の解説の一部です。
「滇の征服」を含む「漢の南方拡大」の記事については、「漢の南方拡大」の概要を参照ください。

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