源郷についての研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 05:49 UTC 版)
「インド・ヨーロッパ祖族」の記事における「源郷についての研究」の解説
インド・ヨーロッパ祖族がいつ、どこに住んでいたかは、「原郷問題」と呼ばれ、彼らの社会の様子とともに様々に議論されてきた。例えば「ブナ」「鮭」などの単語から、それらの生息範囲であるドイツ・ポーランド付近が候補とされたこともあるが、これらの単語の意味が昔から変わらなかったという保障はないので、有力な証拠ではない。 考古学者の中には、インド・ヨーロッパ祖族は単一の民族あるいは部族ではなく、後の青銅器時代の印欧系民族の祖先となる、緩く結束した複数の集団であったと考える者もいる。この見解は、特に印欧語族の源郷およびその年代を広く・深く見積もる考古学者によって唱えられている。しかし、この見解は言語学者には受け入れられていない。言語学者は、印欧祖語は他の祖語と同じくもともとは狭い範囲で限られた部族によって話されていた言語だと考えている。印欧祖語の最初の話者がどこにいたかについては、研究者の間で様々な見解が提唱されているが、これらの説のうち、印欧語の専門家によって十分に精査された後もなお、現在の学界で議論されているものは、わずかしかない。 現在でも決着がついたわけではないが、言語学の立場からはウクライナ・ロシア南東部・カザフスタン西北部周辺のステップと森林が接するあたり、すなわち黒海東北岸地方からコーカサス山脈にかけての一帯とする考えが有力である(クルガン仮説)。ここでは銅器時代に牧畜と狩猟採集を主体とする文化のクヴァリンスク文化が出現、その後これが(おそらく世界でもっとも早い時期の)騎馬文化であるスレドニ・ストグ文化へと発展し、同時代に黒海西北岸で発展していた農耕を主体とする文化のククテニ・トリポリエ文化と互いに接触し合いながら、本格的なクルガン文化であるヤムナ文化へと発展していった。 このほか、原郷はアルメニアであったとする説(アルメニア仮説)や、アナトリアであったとする説(アナトリア仮説)もある。
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