清・チベット軍の反撃、ゾーラーワル・シングの死
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「清・シク戦争」の記事における「清・チベット軍の反撃、ゾーラーワル・シングの死」の解説
ゾーラーワル・シングと彼の従者はマーナサローワル湖とカイラーシュ山に巡礼に向かっていた。彼は道に沿って小さな砦と監視体制を構築したことにより、450マイル以上の荒れ果てた地形に彼の通信と供給ラインを延長していた。タクラコート付近にチタン城が立てられ、そこにはメーター・バスティー・ラームが500の兵、8、9門の大砲とともに置かれていた。 だが、冬季に入ると道に雪が積もり峠は通行不能になり、ゾーラーワル・シングの細心の心配にもかかわらず、そのような長い距離に渡ってのシク軍への供給は失敗に終わった。雨、雪と雷と相まって強烈な寒さは数週間にわたって続き、兵士の多くが凍傷に罹って手や足の指を失った。幾人かは自分自身を暖めるために自分のマスケット銃の木製の部品を焼いて寒さをしのいだ。また、幾人かは寒さに耐えきれずに餓死した。チベット軍、漢族からなる清軍はこの機を逃さず、シク軍が籠るチタン城を攻撃するために進軍した。 同年12月12日、ゾーラーワル・シングとその軍勢は清・チベット軍と激突した。だが、両軍が戦火を交えると、早くもラージプートの武将が右肩を負傷したが、彼は左手に剣を持ち替えて戦った。チベットの騎兵はシク軍の陣地に攻撃を仕掛け、そこにいたゾーラーワル・シングの腰を槍で貫いた。彼は負傷し、逃げることもできず、馬から引きずり降ろされ、首を斬られた。 この戦闘でシク軍のチベット侵略は事実上終わり、シク兵300人が殺害され、700人が捕虜となった。スルカン・ツェテン・ドルジェ将軍は英雄に祭り上げられ、その勇戦は長い間チベット西部住民の語り草となった。
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