清への降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 06:01 UTC 版)
この時、父の呉襄をはじめ呉三桂の一族は北京におり、父からの勧告を受けた呉三桂は一時は順への投降を決めていたが、急に翻意して清のドルゴンに難攻不落と言われた山海関を明け渡し、李自成を討つための援助を求めた。継母の兄にあたる祖大寿が既に清に投降しており、その勧告を採用したともいわれるが、順軍の規律が緩み、民衆に支持されなかったことを知り、自身が北京を解放することにより至高の地位を得ようという野心を持った、という説もある。 ドルゴンは呉三桂の要請を容れ、そのまま北京に進軍を開始した。清と呉三桂の軍は李自成率いる順軍を激戦の末打ち破り、そのまま北京への入城を果たした。その際に李自成に伴われた父の呉襄、北京にいた呉三桂の家族らが李自成に殺されているが、その見返りとして呉三桂は平西王に封ぜられた。 呉三桂に限らず、清は中国侵入にあたり尚可喜・耿仲明らの漢人武将を重用している。彼らの軍事力は清にとって大きな価値があり、また脅威でもあった。呉三桂は陝西・四川方面へ転戦して清に反する流賊を討伐し、順治14年(1657年)に平西大将軍に任ぜられて明の残党勢力である南明政権の討伐にあたる。雲南・貴州方面を攻略してそのまま雲南に封じられた。康熙元年(1662年)に、ビルマ王ピエ・ミン(英語版)の裏切りで、桂王・桂王太子父子を呉三桂に引き渡された。呉三桂は桂王父子を昆明(雲南省)で縊り殺したとも、火刑に処したともいう。このときに桂王の生母の馬太后マリアから「この逆臣めが!わらわは死して、地下から見張って汝の屍をすべて砕かれるのを見てやる!」と罵られたと伝わる。ついに明の皇統は完全に滅亡し、清は呉三桂に親王の爵位を賜うことで報いた。
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