海禁政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 01:03 UTC 版)
元を華北からモンゴル高原に押し戻した明は、当初江南の南京を首都としていた。このため首都に向けた大規模な輸送は必要ではなくなり、漕運は北平(元の大都)や遼東に向けてのものが中心であった。これらの地域は、モンゴル高原に拠って明と対峙するモンゴル帝国(北元)との抗争を指揮するための拠点である。 その後、永楽帝によって北平が首都とされ「北京」と改称されると、再度北京への漕運が重大な課題となった。 だが、当時倭寇の襲撃が深刻化しており、更に海難への危惧や明朝の持つ保守的な傾向も相まって海運反対論が広がった。そこで元が完成させたものの、その後省みられなくなった大運河の再整備を進め、大運河の水位を安定させるための治水工事も行った。そして、一連の工事の成功と海禁政策強化に伴って1415年には海運は渤海間航路などの一部を除いて全面禁止されたのである。 1451年には漕運の最高責任者として淮安府に漕運総督が設置され、以後運官(漕運を掌る官吏)・運軍(漕運を実施する軍の部隊)制度も整備されることとなった。 明の漕運には支運・兌運・改兌の3つの方式があった。支運は農民が租税などを搬入する倉庫を水運の要地に設置し、運軍が要地を経由した転搬法で漕運する制度。兌運は農民が租税などに耗米(輸送費用)を付けて直接運軍衛所付属の倉庫に搬入し、運軍が直達法で漕運する制度。改兌は運軍が直接地方に出向いて農民から租税及び耗米などを徴収した後に直達法で漕運する制度である。15世紀前期には支運から兌運に、同後期には更に改兌へと移行していった。 しかしこれらの制度は、耗米の算定基準の曖昧さから不正の温床になった。運官・運軍の官吏間における贈収賄も問題であった。また、動員されながらわずかな月糧(賃銀)しか与えられなかった運兵たちは、輸送している米などの横領、持ち場からの逃亡などの問題を引き起こした。売却目的で私的に持ち込まれた積荷が、船の沈没の原因となることさえあった。
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