法哲学者として出発とは? わかりやすく解説

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法哲学者として出発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 01:24 UTC 版)

恒藤恭」の記事における「法哲学者として出発」の解説

1916年11月恒藤規隆長女・まさと結婚婿養子になり恒藤姓となる。恒藤規隆日本最初農学博士一人で、沖大東島ラサ島)で燐鉱石発見しラサ島燐礦合資会社(後のラサ工業)の設立人物である。恭は新カント派影響を受け法哲学関心を持つうになる末川博、その義兄河上肇らとも交流した同志社大学法学部教授時代には土田杏村交流していた。1921年には土田との関係で長野県上田市信濃自由大学法哲学講義行っている。 京都帝大助教授時代欧州留学出発前、芥川会いフランス滞在中に来るよう誘った実現しなかった。留学見学主体のもので旅行にも時間費やした1927年7月芥川龍之介自殺京都帝大法学部教授時代1933年赤化思想だとして瀧川幸辰教授著作刑法講義』、『刑法読本』が発売禁止処分なり文部省から瀧川教授罷免要求され学問の自由主張し京大法学部教官全員辞表提出した滝川事件において、松井元興京大総長就任し佐々木惣一宮本英雄森口繁治、末川博休職扱い瀧川幸辰辞表受理し、他の者には辞表撤回求めたが、恒藤恭田村徳治辞表撤回しなかった。事件中、恭は雑誌改造』に「死して生きる途」と題する文章発表している。 京都帝国大学辞任後菊池寛から文藝春秋社誘われるが、大阪商科大学(後の大阪市立大学学長河田嗣郎招聘応じ9月末川博と共に大阪商大専任講師となる。立命館大学非常勤講師兼任し当時立命館大学学長事務取扱)だった織田萬後任学長候補として新聞取りざたされたこともあった(『日出新聞一九三七十二月十八日付)。1930年代には思想的には従来新カント派的な立場離れマルクス、エンゲルス唯物史観をも批判的に摂取した「恒法哲学」とも称される独自の法哲学構築した

※この「法哲学者として出発」の解説は、「恒藤恭」の解説の一部です。
「法哲学者として出発」を含む「恒藤恭」の記事については、「恒藤恭」の概要を参照ください。

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