法哲学者として出発
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1916年11月に恒藤規隆の長女・まさと結婚、婿養子になり恒藤姓となる。恒藤規隆は日本最初の農学博士の一人で、沖大東島(ラサ島)で燐鉱石を発見しラサ島燐礦合資会社(後のラサ工業)の設立人物である。恭は新カント派の影響を受け法哲学に関心を持つようになる。末川博、その義兄の河上肇らとも交流した。 同志社大学法学部教授時代には土田杏村と交流していた。1921年には土田との関係で長野県上田市の信濃自由大学で法哲学の講義を行っている。 京都帝大助教授時代の欧州留学出発前、芥川と会いフランス滞在中に来るよう誘ったが実現しなかった。留学は見学主体のもので旅行にも時間を費やした。1927年7月、芥川龍之介自殺。 京都帝大法学部教授時代の1933年、赤化思想だとして瀧川幸辰教授の著作『刑法講義』、『刑法読本』が発売禁止処分となり文部省から瀧川教授の罷免が要求され、学問の自由を主張し京大法学部教官全員が辞表を提出した滝川事件において、松井元興が京大総長に就任し佐々木惣一、宮本英雄、森口繁治、末川博、休職扱いの瀧川幸辰の辞表を受理し、他の者には辞表の撤回を求めたが、恒藤恭と田村徳治は辞表を撤回しなかった。事件中、恭は雑誌『改造』に「死して生きる途」と題する文章を発表している。 京都帝国大学辞任後、菊池寛から文藝春秋社に誘われるが、大阪商科大学(後の大阪市立大学)学長河田嗣郎の招聘に応じ9月に末川博と共に大阪商大専任講師となる。立命館大学非常勤講師も兼任し、当時立命館大学学長(事務取扱)だった織田萬の後任学長候補として新聞に取りざたされたこともあった(『日出新聞』一九三七年十二月十八日付)。1930年代には思想的には従来の新カント派的な立場を離れ、マルクス、エンゲルスの唯物史観をも批判的に摂取した「恒藤法哲学」とも称される独自の法哲学を構築した。
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