水野勝成の放浪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 03:27 UTC 版)
水野勝成が諸国を放浪した時期は、大きく3つに分けられる。1回目の放浪は、1584年(天正12年)に父・忠重の部下を切り殺して勘当されたことにより始まり、美濃・尾張・京都を放浪している。京都では南禅寺の山門に寝泊まりし、町では無頼の徒と交わり、清水では多くの人を切り殺している。1585年(天正13年)には織田信雄の導きで紀州雑賀攻めと四国征伐(第2次四国征伐)に参加し、その後豊臣秀吉から摂津国豊島郡700石を任される。しかし、まもなく中国地方に逃亡し「六左衛門」と名乗ったとされる(2回目の放浪)。1587年(天正15年)、肥後領主の佐々成政に仕えて九州に渡り、成政の死後は小西行長に仕えた。その次は豊前領主の黒田孝高に仕官したが、1590年(天正18年)孝高の嫡男黒田長政が豊臣秀吉に拝謁するため海路大坂に向かっている途中に、現在の福山市鞆で船を勝手に下りて出奔する(3回目の放浪)。その後勘当が解除される1599年(慶長4年)までの9年間、勝成は備後・備中地方を放浪しているが、これらの期間の出来事とされる伝承には真偽不明のものが多い。なお、この放浪中に庶民の娘との間に長男水野勝俊が生まれ、父勝成の放浪旅に同行している。水野勝成が備後封入となるのは1619年(元和5年)であり、1651年(慶安4年)に死去するまで福山で過ごした。福山藩は勝俊が継承したが、父親の放浪旅を共に過ごしていたために、庶民の気持ちをよく理解して良政を布いたとされる。 詳細は「水野勝成」を参照
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