水野勝成創建伝承の検証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 03:27 UTC 版)
「福山藩の辻堂」の記事における「水野勝成創建伝承の検証」の解説
上記のとおり、「水野勝成が各地を放浪中に旅人の休憩場所の必要性を感じて福山藩主となったのちに憩堂を整備させた」という説が伝承されているが、文献でこの説が初めて登場するのは、1912年(大正12年)に出版された「沼隈郡誌」である。それ以前の「西備名区」(1804年・享和4年)には、水野勝成が諸国放浪中に憩堂で休憩したという記載はあるものの、水野勝成が備後地方に辻堂を造るように指示したという記載は認められない。「沼隈郡誌」以降に発刊された市町村誌には「藩主になった水野勝成が建てさせた」という記述が見られるようになるが、水野勝成が放浪時に使っていた偽名などの違いを考察するに、それらは「沼隈郡誌」を参考にして記載したと考えられる。備後地方に残る辻堂の建立時期を調べると、多くが水野が藩主になった時期以降の建立であり、水野勝成が福山に入ってから辻堂の数が著しく増えたのは間違いないものの、江戸時代の文献には水野勝成の指示という表現は見いだせていない。
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