気動車の生産・開発の停滞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:46 UTC 版)
「日本の気動車史」の記事における「気動車の生産・開発の停滞」の解説
1970年代に入ると国鉄の気動車の需要は充足され、気動車の生産数は減少した。特にキハ181系やキハ65形の生産が終了した1973年度からキハ40系製造開始までの数年間は、新形式の北九州地区の快速用キハ66系と事業用車のキヤ191系の2系列、36輌のみとなった。 日本の鉄道界においては、電車開発は1920年代から、国鉄とは別に、有力な大手私鉄企業や地下鉄を運営する公営企業が、鉄道車両メーカー・重電メーカー各社との協力体制を形成しており、国鉄電車の技術開発停滞期(特に1960年代後半-1970年代)にあっても、高度経済成長に伴う電車の大量需要から大手私鉄・地下鉄電車用の新規技術開発が旺盛であったことで、電車技術の改良は盛んに行われていた。 一方、気動車技術の分野では、市場情勢を左右するような「非電化の大手私鉄」が日本に存在せず、車両・機器類の販路の大部分は国鉄向けとなっていた。このため日本の気動車技術は国鉄が気動車の量産に成功して以来、特に1950年代に液体変速機と「DMH17系」ディーゼル機関が実用化されて以降は、完全に国鉄主導で展開されることになり、車両メーカーやディーゼル機関メーカーの企図による気動車技術新規開発の途は長く閉ざされていた。加えてこの時期には私鉄の気動車需要も減少し、少ない需要の大部分は国鉄や廃止となった他社からの譲渡車で充足されていたため私鉄気動車もまた生産・開発の停滞に陥っていた。こうして1980年代初頭まで、日本の気動車技術は国鉄・私鉄ともに著しい停滞状態となった。
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