民法典論争後日談
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時は遡って1888年(明治21年)7月、ボアソナードの自宅を訪問した井上毅は、両足に水色の水腫ができていながら、山田法相との約束を守り、注釈書の執筆に集中している姿を目撃した。 余はおどろき且覚束なく思ひて、急ぎ山田司法大臣の邸に至り此由を告げゝるに、司法大臣も共に驚かれ、即ち秘書官栗塚[省吾]君を遣り、君を訪問せしめて、速かに転地療養あらむことを勧められけり。君は約束当事者の命を受けて、始めて心おきなく田舎に転養せられたり。余は此時家に帰りて窃(ひそか)に嘆息して云へらく、凡そ司ある人々にして、斯くまでに深き義務心に伴へる勉強を以て勤しみたらむには、立法事業並に諸般の事の挙らざることやあるべきと。此事、一小件なれども、余は将来、ボアソナード君の名誉ある史伝中の一段と称すべき価値あると信ずるが為に、別れに臨みてこれを公衆の前に述ぶ。 — 井上毅 1895年(明治28年)3月、かつては娘とともに帰化を検討したと報道され、外国人として初めて勲一等瑞宝章が決定していたボアソナードだったが、朝野の熱烈な見送りを受け日本を去った。この時井上は死の床にありながら「ボアソナード君の帰国を送る詞」を書き、身命を削って任務に邁進した彼を称賛し、直後に死去した。 1934年(昭和9年)、杉山直治郎らを中心に、パリ大学構内にボアソナードの胸像が贈呈される。1968年の五月危機以後大量撤去されたほかの胸像と異なり、それは今なお健在である。
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