死別、再婚とプラハへの帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:15 UTC 版)
「ベドルジハ・スメタナ」の記事における「死別、再婚とプラハへの帰国」の解説
Polka in A minor from Memories of Bohemia in Polka Form, Op. 12, 1859 Piano: Veronika Ptáčková この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 カテジナの健康は徐々に悪化し、1859年の春には最悪の状態になった。彼女は故郷に帰りたいと切望していたため、ドレスデンに戻り、同地で1859年4月19日に亡くなった。スメタナは、彼女が死んだことについて、「gently, without our knowing anything until the quiet drew my attention to her.」と書いている。娘ゾフィーがカテジナに付き添うようになった後、スメタナはヴァイマルでリストと過ごしている。そこで彼は、リストの生徒であるペーター・コルネリウスによって書かれたコミック・オペラ『バグダッドの理髪師』を紹介されている。この楽曲は、スメタナの後の音楽家としての人生をオペラ作曲家にするように影響したと考えられている。同年後半には、彼は弟のカレルのもとに滞在し、カレルの義理の姉妹で16歳年下のバルボラ(ベッティーナ)・フェルディナンディオヴァと恋に落ちた。スメタナは彼女にプロポーズし、1859年から1860年にかけての冬、ヨーテボリに戻ってから、彼女から受諾を得た。スメタナと彼女がスウェーデンに戻った後、1860年7月10日に結婚した。1861年4月には、スウェーデン王家から招待され、ストックホルムでピアノ演奏をするなど、絶頂期を迎える。同年9月には、スメタナとバルボラとの間の最初の娘、ズデンカが誕生している。 このような中で、1859年、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍はソルフェリーノの戦いで敗れ、ハプスブルク君主国は弱体化しつつあり、フォン・バッハの力も落ちつつあった。このことは、徐々にプラハにより開放的な空気を持ち込むようになり、1861年には、スメタナはチェコの民族主義と文化によりよい展望を見出している。スメタナがこれからのことを決める前、9月に、スメタナはオランダとドイツで演奏旅行を敢行した。彼はまだ、ピアニストとして名声を得ることを望んでいたが、再び挫折を経験することとなった。プラハに戻り、1862年1月、ジョフィーン(Žofín)島コンサートホールで、『リチャード三世』と『ヴァレンシュタインの陣営』とを指揮した。この時の観客は、控えめな反応を示したという。評論家たちは、主にリストに代表される"新ドイツ楽派"を信奉しすぎているとして、スメタナを批判した。スメタナは、「預言者は、自身の土地では敬われないのです。」と返している。1862年3月、スメタナはヨーテボリを短期間訪れた。しかし、スメタナはヨーテボリをそれほど重要視しなかった。これは、ヨーテボリが彼には田舎の僻地であるように思えたからであった。そして、どんなに困難であっても、プラハで音楽家としての道を進む決意を固めた。スメタナは、「私の祖国が、私が本当の満足を得ることができる唯一の場所であると、心の中にしっかりと根付いている。」と語っている。
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