歴史的な街道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 15:39 UTC 版)
「バート・エントバッハ」の記事における「歴史的な街道」の解説
遠距離交通路や通過交通から隔絶された現在のこの町の交通状況は、昔のそれとは全く異なっている。中世初期から後期まで、この地域を重要な交易路が通っていた。これらの街道は、おおむね集落から離れた分水界となっている地盤の硬い、乾燥した丘の上の尾根やそれに並行した斜面を通っていた。そのルートは固定されておらず、道がなくなるとそのすぐ隣から数百 m 程度離れた場所に新たな道ができた。 この地域で最も重要な古い街道は東西に通る遠距離通商路で、交易都市であるライプツィヒとケルンとの間を結んでいた。この街道はマールブルク=オッカースハウゼン方面から、ヴァイマル北部を通り、その後はグラーデンバッハまでおおむね現在の連邦道 B255号線沿いに伸びていた。ラーヒェルスハウゼン集落付近からボッテンホルン高地に上り(ハウス近郊でザックプファイフェやビーデンコプフ方面へ向かう軍事街道が分岐していた)、ヒュルスホーフの近くからアンゲルブルク(山)を抜けていた。ここで、北からニーダー=アイゼンハウゼンを通って来てアルト=デルンバッハ(ヘルボルンゼールバッハ近郊)やヘルボルン方面へ向かうホーエン街道と交差した。遠距離通商路ケルン - ライプツィヒ街道は、アンゲルブルクからエッシェンブルク中央部、ディーツヘルツタール、ジーゲンを経由してケルンに達しており、さらに現在のベルギーにあたるブラバント公国にまで伸びていた。そのため「ブラバント街道」とも呼ばれる。方伯は1261年にブランケンシュタイン城の城代である騎士エルンスト・フォン・ロートハイムに対して、この地域の "strada publica"(公道)を保護するよう義務づけた。 ラーン=ディル分水界、すなわちアール=ザルツベーデ分水界を通るもう1つの大変に重要な遠距離街道は「ヴェストファーレン街道」と呼ばれていた。この街道はギーセン方面からデュンスベルク(山)を通り、ツォルブーヒェ(山)までは現在の州道 L3047号線にほぼ沿っていた。その後、ギュンテロート近郊、ハルテンロートとシュリーアバッハの西側の斜面の道をアンゲルブルク(山)まで達している。その北側に延びる街道をたどるとパーダーボルンやブレーメンに至る。 谷を通るそれほど重要でない枝道にオーバーゲリヒツヴェクがある。この街道はマールブルクとヘルボルン/ディレンブルク方面とを結ぶ、通商・伝達路であった。この街道は、現在の州道 L3050号線が建設された1865年頃まで、いくつかの集落を通る連絡路として使われていた。オーバーゲリヒツヴェクのルートはグラーデンバッハ/ブランケンシュタイン城から Schloog vier de Lache 付近のインナーヘーゲの関所を通り、ハルテンロートを経由してアウサーヘーゲの関所で二手に分岐する。一方はヘルボルン方面、もう一方はディレンブルクへ至る。方伯の城であるブランケンシュタイン城、デルンバッハ城、ヴァレンフェルス城の城代は、14世紀にヘッセン方伯から街道を保護するよう文書で命じられた。
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歴史的な街道
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「ノイホーフ (フルダ郡)」の記事における「歴史的な街道」の解説
現在のノイホーフ町の集落は、中世には 2つの古い街道ヴィア・レギア(ドイツ語版、英語版)(フランクフルト・アム・マインからライプツィヒへの「ケーニヒスシュトラーセ」(王の道)あるいは「ライヒスシュトラーセ」(帝国の道))。「アルテ・ヘールシュトラーセ」(古い軍隊の道)とも呼ばれる)と Antsanvia(マインツからアイゼナハへの交易路。「アルテ・シュトラーセ」(古い街道)とも呼ばれる)の交差する地点に面していた。 さらにヴィア・レギアに沿ってフルダとフランクフルト・アム・マインとの間にヤコブの巡礼路が通っていた。現在、ヴィア・レギアのコース沿いには「Des Reiches Straße」(帝国の道)という標識が建てられている。
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