正常化体制の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:30 UTC 版)
詳細は「正常化体制(英語版)」を参照 モスクワから戻ったドゥプチェクたち指導部は、国民に対し、改革の継続を表明した。しかし、「モスクワ議定書」の履行を求めるソ連と、それに連動する国内親ソ派からの圧力によって、ドゥプチェク指導部の選択肢は次第に狭められていった。たとえば、介入以降チェコスロバキアに留まっていたソ連軍の撤退問題は、10月、暫定駐留条約の締結によって、実質的に正当化された(最終的なソ連軍の撤退は1989年の共産党体制崩壊を待たなければならなかった)。改革派への圧力の矛先は、国民の人気が高かったスムルコフスキーに集中し、国民議会議長職から解任された。 その一方、『行動綱領』が掲げた改革政策のうち、連邦制の導入は、10月28日に実施され、1969年1月1日をもって、チェコスロバキア社会主義連邦共和国となった。 1969年1月16日、カレル大学の学生ヤン・パラフが軍事介入および改革の後退に抗議し、焼身自殺を図った。3月、ストックホルムで開催していたアイスホッケー世界選手権でチェコスロバキア・チームがソ連チームに勝利したニュースが伝わると、多くの国民が街頭に繰り出し、その勝利を祝った。そしてその一部がプラハのアエロフロート事務所に投石する事件に発展した。ソ連は、この事件を反革命勢力による陰謀と断定し、ドゥプチェクに取締りの強化を要求した。 1969年4月、ドゥプチェクに代わり、フサークが党第一書記に就任し、「正常化体制」を進めるが、ドゥプチェクは共産党に踏みとどまった。翌年の1970年3月21日、共産党機関紙はドゥプチェクの党員権の一時停止、前人民会議議長のスムルコフスキー、改革派の理論家のヨゼフ・シュバチェク、共産党機関紙前編集長のイリセケラなどの党籍剥奪を報じた。ドゥプチェクはやや遅れて同年6月に党から除名され、「プラハの春」は終焉した。
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