歌手活動のはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/25 14:24 UTC 版)
「ジャン・ピアース」の記事における「歌手活動のはじまり」の解説
コロンビア大学でのバンド活動でジェイコブは「ピンキー・パール」(Pinky Pearl) や「ジャック・パール」(Jack Pearl) といった芸名を使い、ヴァイオリンと歌唱で名を馳せたが、これらの活動が興行師サミュエル・ロキシー・ロサフェル(英語版)の目に留まり、ジェイコブは1932年に開場したラジオシティ・ミュージックホールの興行にバンドごと誘われることとなった。ロサフェルはジェイコブとは「歌手としてのジェイコブ」ではなく「ヴァイオリニストとしてのジェイコブ」として契約したが、間もなく歌手として売り出すことを決心する。契約を結ぶ前、ホテル・アスターでのバンド公演でロサフェルが、ジェイコブが "Yours Is My Heart Alone" を歌っていたのを耳にしていたからであった。ロサフェルはジェイコブに「ジョン・ピアース」(John Pierce) という芸名を与えた。ジェイコブは決して身長が高いわけでもなく体格もやや幅広で、風貌もエスニック的であり、このことが聴衆に受け入れられるかということが心配の種であったが、ロサフェルは「世界で最もハンサムな男」というキャッチフレーズも添えてジェイコブをデビューさせた。ほどなくしてジェイコブはロサフェルと相談の上で芸名を「ジャン・ピアース」に変更するが、この名前はロサフェルが創案した芸名と自身のアイデンディティーの妥協の産物であった。以降、ジェイコブは「ジャン・ピアース」と名乗っての歌手活動と匿名での活動に専念することとなった。本項では、この節以降、ジェイコブをピアースと表記することとする。なお、歌手活動に本腰を入れるに際して、ジュゼッペ・ボゲッティ(英語版)の門下となって勉学に励んだ。 ラジオシティ・ミュージックホールを中心とするピアースの活動に転機が訪れたのは1938年のことである。ピアースは、前年1937年から活動を開始していたトスカニーニ率いるNBC交響楽団の演奏会に参加することになった。手始めに、1938年1月15日の放送演奏会でブゾーニの『ロンド・アルレッキネスコ』 (Rondo Arlecchinesco) で歌詞のない舞台裏の声の役で出演し、次いで2月6日の基金コンサートのためのオーディションを受験することとなって、その場で初めてトスカニーニと対面することとなった。ピアースは、オーディションでドニゼッティ『愛の妙薬』から「人知れぬ涙」を歌ったが、ピアノ伴奏を務めたトスカニーニが出だしの部分でミスをしたことが印象に残った、とピアースは後年に回想している。ピアースはオーディションに合格し、基金コンサートの本番ではヴィナ・ボヴィ(英語版)、キルステン・トルボルク(英語版)およびエツィオ・ピンツァとともにベートーヴェンの交響曲第9番(第九)を歌った。この公演以降、ピアースはトスカニーニのお気に入りのテノール歌手となり、1957年のトスカニーニの死まで親交が続くこととなった。
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