歌う革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:22 UTC 版)
「エストニアの独立回復」の記事における「歌う革命」の解説
6月13日に第11期最高会議 (et) の委員会は、エストニア語をエストニアの国家語とし、長らく禁止されていた青黒白の三色旗を復権する勧告を、全会一致で可決した。一方、共産党第一書記ヴァイノは同月に予定されていた第19回連邦党会議(英語版)のエストニア代表を、モスクワの指示に背いてまで、複数政党制選挙ではなくエストニア共産党の任命によって行おうとした。これに抗議して14日には人民戦線による大規模なデモが発生し、恐慌状態に陥ったヴァイノは独断でモスクワへソ連軍の介入を要請した。しかし、トーメら党内改革派はこれに強く抵抗し、トーメの進言によってゴルバチョフは16日にヴァイノを第一書記から解任した。後任の第一書記となったのは、ゴルバチョフのコムソモール時代からの同志であり、地元出身の元駐ニカラグア大使ヴァイノ・ヴァリャス(エストニア語版)であった。 この無血革命の第一段階に人々は沸き立った。6月17日には、連邦党会議に出席するヴァリャスを激励するための集会がタリン歌謡祭グラウンドで開催され、それには全人口の1割に達する15万人が参加した。1869年からの伝統を誇るエストニア全国歌謡祭が開催されてきた同グラウンドは、これ以降、組織されたものや自然発生的なものを含め、多数の民族歌謡祭の舞台となった。エストニア人の民族意識を鼓舞し、彼らを独立へと突き動かしたこの歌謡祭は、ヴァルクによって「歌う革命」と名付けられ、エストニア独立回復の象徴となっていった。 8月26日から28日にかけては、人民戦線と一体化したロック・フェスティバル「ロック・サマー '88」(et) が開催され、悪天候のなか22万人を動員した。9月11日に開催されたコンサート「エストニアの歌」(et) にはエストニアの全人口の3分の1に当たる30万人が参加し、そこではヴァリャス夫妻やコイクも民衆とともに歌声を上げた。その日、ヴァリャスは人民戦線の要求の大部分を容れ、モスクワに対しエストニア人が自身の国籍・経済・文化・政治を自主管理できるような「自由な諸民族の真の連邦」となるよう求めた。
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