欧州懐疑派のジャーナリスト
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「ボリス・ジョンソン」の記事における「欧州懐疑派のジャーナリスト」の解説
1987年9月にアレグラ・モスティン=オーウェンと最初の結婚を果たし、1993年4月に離婚した。同年、L.E.K.コンサルティングに就職するが、退屈のあまり1週間で退職した。家族のコネで保守系紙『タイムズ』で働き始めるが、エドワード2世の宮殿を巡る歴史考古学関係の記事で学者の発言をでっち上げたため、すぐ解雇されている。続いてやはり保守系紙の『デイリー・テレグラフ』記者となり、1989年から1994年まで同紙のEC特派員となった。ブリュッセルに駐在していたジョンソンは反EC色の強い記事を書き続け、特に欧州統合の強力な推進者であったジャック・ドロールを厳しく批判し、ECの首都たるブリュッセルの地にあって、数少ない欧州懐疑主義のジャーナリストとして知られるようになっていったが、当時の彼を知る記者たちの多くは、彼の記事はECの信用を傷つけるために虚偽の事実や誇張を交えていたと批判的に振り返っている。 こうした記事によって、彼は欧州懐疑派の代表的な人物として知られるようになる。また以前は左派によって主張されることが多かった欧州懐疑主義を、右派にとって魅力的なものに変貌させるのに大きく貢献した。その影響は現実政治の世界にも及び、1990年代前半のイギリス独立党の出現に一役買ったとされている上、保守党内における親欧州派、懐疑派の軋轢を刺激することにもつながったという。首相としてはヨーロッパと距離を置きがちであったマーガレット・サッチャーもジョンソンの記事の愛読者であったとされるが、マーストリヒト条約の締結に尽力するなどヨーロッパとの関係修復に尽力した後任首相のジョン・メージャーにとっては、ジョンソンは煙たい存在であり、当時の外務・英連邦省ではジョンソンの記事に対応する特別チームが設けられるほどであった。1997年5月の総選挙における保守党大敗と政権転落の大きな原因の一つは党内における欧州懐疑派の台頭に伴う混乱とされているが、ジョンソンの記事はそうした混乱の一因と見なされたため、その後しばらく保守党の政治家たちの不興を買うことになった。 1993年5月に幼馴染のマリーナ・ホイーラーと結婚し、4子をもうけた。その後2020年11月に離婚した。 1994年にロンドンに戻ると政治コラムニストとなり、ユニークなスタイルで評価を得る一方、黒人・ゲイへの差別的な記事や植民地支配を賞賛する記事で物議を醸した。『スペクテイター(英語版)』誌の政治コラムニストを経て、1999年7月から同誌の編集者となり、政界入り後は2005年12月に影の内閣の高等教育大臣に任命されるまで務めた。
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