櫻井錠二会長の追放
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当時東京化学会においては化学用語の訳語の統一が重大な課題として挙がっており、櫻井も訳語選定委員を務めていた。特に大きな問題になったのは化学と舎密学の対立であった。江戸時代に舎密の語が作られた当時には理論化学と呼べるような体系はまだ構築されていなかった。そのため、舎密は応用化学を指す語として受け入れられてきた。大日本帝国時代になっても工業化学分野では根強い支持があった。1884年(明治17年)に化学を舎密学と改めることについての全会員73名による投票が行われ、賛成35名で否決されている(改定には2/3の賛成が必要とされていた)。このような状況下で櫻井は現在の物理化学の発展と化学が原子運動を解析する学問となるであろうとする展望についての会長講演を行った。しかしこの講演はむしろ工業化学派の反感を呼んだと思われ、当時ドイツに滞在していた薬学者の長井長義を会長として迎えるクーデター人事により会長職を追放された。しかし1903年(明治36年)に会長に再選された。 1925年(大正14年)には、「日本十大発明家」の1人でありグルタミン酸ナトリウムの発見者池田菊苗の還暦祝賀記念に際して醵金された資金が日本化学会に寄付され、1926年(大正15年)に日本を代表する化学分野の総合論文誌である英文論文誌「Bulletin of the Chemical Society of Japan」が創刊された。 1907年(明治40年)、櫻井錠二は在職25年記念祝賀会に有志から寄せられた基金を会に寄付し、優秀な研究者に桜井褒章を授与し「日本化学会賞」の起源となった。更に昭和11年、真島利行の還暦祝賀会に寄せられた醵金を基に真島褒章が設立され、第1回真島賞は「紅花の色素カルタミンの構造決定」という功績に対し日本最初の女性化学者黒田チカに授与された。天然色素に関する黒田の研究に関して、2013年に日本化学会がその関連資料を化学遺産に認定した。
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