横山大観門下から関東大震災まで
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1914年、前述の横山大観に師事した。この年日本美術院が再興されると文展出品を取りやめ、以後院展を作品出品先と定めた。翌1915年には妻を娶っている。 1915年に出品した第2回院展「作業」は労働者を群像を描いたものだったが、師横山により題材の品について叱責を受けた。翌1916年11月25日より絵画修業を目的として荒井寛方のインド旅行に便乗、カルカッタ周辺で2か月間、翌1917年2月よりブッダガヤ、デリー、またこれらの帰路にボンベイに立ち寄って周辺写生を行った。特にボンベイではエレファンタ石窟の仏教彫刻に感銘を受けた。しかし同年9月の第4回院展にインドの印象を作品として出品した「熱国の夕べ」は赤、緑など強い色彩を用いたことで色盲と酷評された。 1918年より健康を害し、また極度のスランプに陥っている。1920年には健康回復および気分転換のために弓道を開始した。またこの頃より花鳥画の制作を目的として東京近郊から山梨県にかけての写生旅行を行っている。これらのスランプ脱却活動は1922年第9回院展「桃と柘榴」にて横山に好評を受けるまで続いた。 1923年9月1日、関東大震災発生。当日は院展開催日だった。このときの震災の様子を南風は1925年作の「大震災絵巻」3巻に描いた。
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