業績下降期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:28 UTC 版)
上記の社債発行限度額の問題は、松永らの運動によって1927年3月電気事業法改正による規制緩和が実現し、電力会社に限り限度額が払込資本金の2倍に引き上げられた。1931年(昭和6年)にかけて、電源開発が一段落したにもかかわらず関係会社への投融資のため大規模な資金調達が続けられたが、社債発行が容易となり高配当の維持が必須でなくなったため、利益率減という事情もあって1927年下期より年率2パーセントの減配に踏み切っている。 1920年代末より深刻化した不況は、長期社債の金利低下という副産物があったものの、1930年(昭和5年)になると世界恐慌の波及と金解禁が重なって未曾有の恐慌となり、しばらく新規の社債発行は困難となった。社債発行に失敗した東邦電力では、九州区域での拡張工事資金などを調達するため、同年6月1663万円の払込金徴収を余儀なくされた。利益率が低下傾向にある中での払込金徴収による配当金増加は経営上大きな負担であるため、これに前後して2つの配当抑制策を実施している。1つ目は減資で、貯蓄会社の東邦貯蓄を同年5月に解散させ、同社が持っていた自社株28万6424株を消却した。この減資で資本金は1億3000万円となった。配当抑制策の2つ目は減配で、払込金徴収の終了と明らかな業績低下で減配に対する株主の抵抗が弱まったため、6期続いた年率10パーセントの配当を1930年下期より8パーセントへ引き下げた。なお減配後、東邦電力では償却費の拡大に努めた。 恐慌の影響により、1931年度の営業成績は大幅に減少し、電灯料収入は前年度比9パーセント減、電力料収入は6パーセント減となった。毎年拡大を続けていた年間の総収入は同年度初めて減少し、1930年度の5880万円から5246万円へと縮小した。結果、対平均払込金利益率は1931年下期には11パーセントへと後退。配当率も年率7パーセントへとさらに引き下げられた。ただしこうした業績下降期にあっても五大電力各社の中では安定した業績であり、1931年下期には年率3パーセントの配当率に低迷していた東京電灯とは対照的である。
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