棺台・棺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/05 22:00 UTC 版)
前述のように、玄室内には棺台3基が「品」字形に配置される。各棺台の詳細は次の通り。 奥棺台 玄室最奥に位置する。長方形で、長辺は奥壁と平行方向(東西方向)とする。凝灰岩製(推定)の切石で、大きさは長さ2メートル、幅0.76メートル、高さ0.49メートルを測る。側面は半肉彫の格狭間により装飾される(棺台の格狭間文様は近在の御嶺山古墳でも知られる)。上面は0.18メートルほどの深さで掘り窪められ、窪み両端は0.24メートルほどに深くして水抜き孔が穿たれる。この窪みのために棺台でなく刳抜式の石棺身とする説もあるが、棺身としては浅すぎるため、これは棺台が後世に手水鉢に加工されたことによると推測される。被葬者としては、最奥に位置することから穴穂部間人皇女(厩戸皇子の母かつ皇子の前年に死去)と推定される。 東棺台 玄室右手前に位置する。長方形で、奥棺台とは垂直に長辺は南北方向とする。凝灰岩製(推定)の切石で、大きさは長さ2.42メートル、幅1.11メートル、高さ0.61メートルを測る。側面は奥棺台と同様に半肉彫の格狭間により装飾される。被葬者としては、その大きさ(3棺中最大)および配置(奥から見て高位の左側)から厩戸皇子(聖徳太子)と推定されるが、その場合には皇子を正面としない点が注意される。 西棺台 玄室左手前に位置する。長方形で、東棺台と同様に長辺は南北方向とする。凝灰岩製(推定)の切石で、大きさは長さ2.17メートル、幅0.91メートル、高さ0.67メートルを測り、高さは東棺台と共通する。側面は奥棺台と同様に半肉彫の格狭間により装飾される。被葬者としては、膳部菩岐々美郎女(皇子の妃)と推定される。 3棺台の周辺では夾紵棺(きょうちょかん、乾漆棺)片の散乱が認められる。夾紵棺とは、木または土の原型の上に布をあてて、その上に漆を塗っては布を貼るという作業を繰り返して板状に形成された棺のことで、飛鳥時代当時では相当な高位の人物にのみ使用された棺とされる。全国では7基の古墳で使用が認められており、確実なものは牽牛子塚古墳(奈良県高市郡明日香村、真の斉明天皇陵か)と阿武山古墳(大阪府高槻市、藤原鎌足墓か)でのみ知られる。 叡福寺北古墳の棺の関連遺物としては、安福寺(柏原市)所蔵の夾紵棺片(柏原市指定有形文化財)が知られる。この夾紵棺片は45枚もの絹を重ねて製作されたもので、現在の残存片は長さ94センチメートル、幅47.5センチメートル、厚さ3センチメートル(2センチメートル)を測り、残存縁辺から棺身の小口部分に相当するとされる。安福寺の床の間に飾られていたのが注目されるに至ったもので、安福寺周辺では終末期古墳が知られないため元々安置された古墳は詳らかでない。安福寺は叡福寺北古墳から北方数キロメートルと離れて位置するが、夾紵棺片に高級な絹布が使用された点(牽牛子塚古墳棺・阿武山古墳棺は麻布)、推定棺が叡福寺北古墳の東棺台の幅(1.11メートル)に収まる点、江戸期の安福寺と叡福寺の交流の点などから、厩戸皇子の棺の可能性があるとして注目されている。
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