森村組設立後
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森村豊(トヨ)は、慶應義塾を卒業後、助教として勤めていたが、1876年(明治9年)内務省勧商局の支援と福澤諭吉の協力の下、佐藤百太郎が計画した「米国商法実習生」の一人に選ばれてニューヨークに渡る。現地の学校で商業・語学を3ヶ月学んだ後、現地で商売をしていた佐藤百太郎とともに日の出商会を設立。6代は骨董品や陶器・提灯などを仕入れて送り、業績が好調なことから森村豊は1878年にニューヨークの六番街で森村組の現地法人として森村ブラザーズ (Morimura Bros. & Company) を単独で開業した。また、6代の義弟・大倉孫兵衛は日本橋で老舗の絵草紙屋を経営していたが、間もなく森村組に参加した。森村ブラザーズの経営は小売から卸売への転換で順調に軌道に乗り、翌1879年には売上高が5万ドルを超えた。新しい店に移転(住所:546 Broadway)し120人以上の従業員を擁した。森村豊は福澤諭吉の推薦により村井保固を日本から迎え入れ、森村ブラザーズのアメリカ支配人とした。1893年(明治26年)に森村豊は、森村と同じ船で渡米した仲間の一人である新井領一郎のパートナーとして日本製生糸の輸入販売を行う「森村・新井商会」(Morimura, Arai & Company) を設立。 ここで個々の商品当たりの利幅が大きい小売業から大量取引が可能な卸売業への転換を決断し、当時アメリカでの生産がほとんどなかった陶磁器、特に日用の食器を扱うようになる。1885年より注文を受けてから生産を行い、かわりに通常よりも値引きをすることで効率的な在庫管理に成功し、1889年には売上高が25万ドルに達した。1906年には推定売上げが約500万ドルと大きく伸びた。 取引の規模が大きくなったことから1893年には生地の生産地である名古屋に専属窯を設けるようになり、さらに翌年には、それまで東京・京都に外注していた絵付け(上絵付)の工程も集約して名古屋に絵付工場を設立した。なお、1894年1月16日には6代・市左衛門を襲名している。1906年には専属工場を全て合併し、錦窯組とした(後に日本陶器が吸収)。
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