校舎の設立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 17:23 UTC 版)
1875年(明治8年)現在の場所に校舎を新築し、下市田学校に改称した。1886年(明治19年)3月8日、火災のため校舎が焼失した。 1888年(明治21年)2月19日に再建され、その後、増改築や校名変更などを経て小学校統一の動きにより新たな校地での統合校舎建設計画が進みはじめた。1933年(昭和8年)統合校舎が完成し、小学校としての役目を終えた。 1940年(昭和15年)中等学校に進学しない青年に人格的修養や職業指導を行う市田青年学校として開校するも、戦争が始まると次第に軍隊教育が国民教育の本筋へと変化していった。 1947年(昭和22年)学制改革による新学制が発足し、青年教育の重要性及び教育の機会均等を図るため、青年学校が廃校となった。1948年(昭和23年)長野県下伊那農業高等学校定時制市田分校として開校、1958年(昭和33年)、高森町発足により高森分校に改称した。 1979年(昭和55年)3月に、生徒の減少予測などの理由により、本校へ統合され廃校となった。1981年(昭和56年)5月、西洋風建築の中でも玄関に洋風様式が顕著なことや現存するものが少ないことなどから、歴史的評価が高かったため高森町有形文化財に指定された。1982年(昭和57年)学校の保存運動により、校舎の復元補修工事が行われた。
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