東国の割拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)
当時の坂東の武士にとって、最優先事項であったのは在地における各々の権益の確保と拡大にあった。頼朝は、自らの御家人の権利を確保することが求められており、さらには競合勢力とのせめぎあいを常に抱えていた。実際に頼朝は、志田義広、新田義重、佐竹氏や足利忠綱といった周辺の敵対勢力を排除・屈服させることに非常に尽力している。治承4年(1180年)11月には金砂城の戦い、翌年(実際は寿永2年とも)の足利俊綱との争い、寿永2年(1183年)2月の野木宮合戦、さらに同年3月頃には信濃国近辺で木曾義仲と大軍を率いてにらみ合ったのち和平を結ぶなど、この頃の頼朝は坂東における自らの勢力基盤の確保と拡大に力を注がざるを得ない状況であった。また背後に奥州藤原氏や金砂城合戦後も常陸に勢力を残す佐竹氏の脅威を抱えていた。そのような中で御家人に対して本領安堵、新恩給付といった所領の保証を行い主従関係を強固にすると共に頼朝は自らが有する都との人脈を通じて朝廷との接触や交渉を行って徐々に坂東における優位を獲得していく。 一方治承5年(1181年)6月、木曾義仲は横田河原の戦いで城助職を破り、信濃から越後を席巻した。一時は上野まで進んだがその後北陸方面へ転進し、後に越前若狭などで挙兵した北陸の在地勢力と結ぶこととなる。その後、義仲を頼って来た以仁王の子(北陸宮)を推戴し、北陸における優位を確立する。この時期の東日本は奥州は奥州藤原氏の勢力下にあり、南坂東は源頼朝、越後と北坂東信濃の一部は源義仲、甲斐駿河遠江と信濃の一部を甲斐源氏が割拠するという状況になった。
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