東国における挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)
詳細は「石橋山の戦い」、「波志田山合戦」、および「市原合戦」を参照 以仁王敗死の頃、令旨が各地の武士に配られていた。源頼朝はそのうちの1人で、相模・伊豆・武蔵の武士団への呼びかけを始めた。頼朝は8月17日に挙兵、伊豆国目代の山木兼隆を襲撃して殺害する。その直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦するが頼朝軍は惨敗し追い詰められた(石橋山の戦い)。その直後に平氏方は甲斐国境付近で甲斐源氏の安田義定らと軍事衝突する(波志田山合戦)。 頼朝は、9月、海路で安房国へ逃れた後、その地で三浦氏勢力とも合流した後に再挙した。 頼朝の軍勢は房総半島内を北上し、安房の在庁官人をはじめ房総半島の上総広常、千葉常胤らの諸豪族を次第に傘下に加え急速に大勢力となっていく。9月末には下総国葛飾郡へ陣を進めた(鷺沼、下総国府、隅田川東岸)。 彼らの大部分は坂東平氏(桓武平氏の流れを汲み坂東一帯に勢力を持つ武士・在地領主)だった。当時、坂東の在地豪族間の争いは激しく、また親平氏勢力(加えて新たに知行国主となった平氏が支配する国衙)による他勢力への圧迫が進みつつあった。千葉氏、上総氏などはこの挙兵を自勢力回復の好機と捉えた(頼朝の房総進出と前後して、千葉氏と平氏系の目代との戦いである結城浜の戦いが起きている)。また、都から遠く離れた地にあっては豪族達は自力で所領を守るしかなく、その不安定な状態から抜け出し所領を安堵してくれる者を求めたいという潜在的な要求もあった。 頼朝は、軍勢を下総国から武蔵国へ進めるに当たリ、去就を迷っていた武蔵国有力武士へ速やかに参陣するよう命じた。なお武蔵国有力武士は挙兵時の当初は少なからず平氏側に立って戦った(衣笠城合戦)。 10月2日、軍勢は太日川から隅田川の渡河を開始した。武蔵の足立遠元、豊島清元、葛西清重が参陣した。 翌日に頼朝は下総国から武蔵国へ入り、さらに畠山重忠、河越重頼、江戸重長も参陣し、武蔵国・相模国も頼朝の勢力下となった。 10月6日、頼朝の軍勢は先祖のゆかりの地である相模国鎌倉へ入って本拠地とする。これにより関東政権(後の鎌倉幕府)が樹立される。また、この時までに関東政権は坂東南部の実質的な支配権を獲得している。 同時期に甲斐の武田信義を棟梁とする甲斐源氏の一族や、信濃の木曾義仲も相次いで挙兵している。
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