東京自由が丘から、満州ハルビンへとは? わかりやすく解説

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東京自由が丘から、満州ハルビンへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 17:07 UTC 版)

今井和也」の記事における「東京自由が丘から、満州ハルビンへ」の解説

東京都自由が丘で東京高等工業学校現在の東京工業大学)を卒業した父・秀雄と、女子美術専門学校卒業した母・テイ長男として生まれた清水組現在の清水建設)に建築設計士として勤務していた父がハルビン工業大学教授になったことを契機に、1937年小学校1年時に父母、姉と4人の一家ハルビン移住ハルビンで妹が生まれた1945年ソ連との国境近く王栄開拓団勤労奉仕をしていた中学三年の時、ソ連軍満州侵攻遭遇し終戦後ソ連占領下ハルビン衣料品立ち売り花札作って自ら売りながら、一家飢えしのいだ1946年にようやく日本引揚げ自由が丘の家に帰った引揚げ後は、旧制都立大森中学に編入同窓には、小田島雄志シェークスピア学者)、東威(リューマチ研究権威)、筒井昭輔(画家)たちがいた。1948年、父が結核死去自身結核感染して大量に喀血広島県西条市結核療養所入所し、3年間の闘病生活終えて再び東京戻った1952年東京大学文科2類入学フランス語を学ぶ文2・6Dというクラスに入る。このクラスには詩人入沢康夫藤野昌子、「無限大編集長前野昭吉たちがいた。教養学部時代美術サークル入部し東郷青児アトリエ油絵を学ぶなどしていたが、502点出品した二科展あえなく落選画家への道は断念したその後文学部美学美術史学科進学し、同じゼミ所属していた樋口恵子(現・東京家政大学名誉教授当時全日本学生新聞連盟副委員長)の勧誘で、東大学生新聞会に入会映画評論論説執筆する一方でイラストも手がけ、大江健三郎デビュー作東大五月祭入賞作品であった奇妙な仕事」の挿絵描いたりしていた。

※この「東京自由が丘から、満州ハルビンへ」の解説は、「今井和也」の解説の一部です。
「東京自由が丘から、満州ハルビンへ」を含む「今井和也」の記事については、「今井和也」の概要を参照ください。

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