李成・范寛・郭煕
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李成(10世紀)は長安の人で、字は咸熙(かんき)。唐の宗室の出で、五代末・宋初の混乱を避けて山東営丘に移った。李成は、後出の郭煕とともに「李郭」と併称される。「董巨」(董源と巨然)が江南山水画の祖とされるのに対し、「李郭」は北方山水画の祖とされている。李成の事績については、画史の類には多く記録されるが、真蹟は現存せず、伝承作品も多くはない。李成の画風について「墨を惜しむこと金のごとし」と評された。北宋末の米芾は「李成の真蹟は2本しか見たことがないが、偽物は300本もある」と言っている。現存する伝承作品には『晴巒蕭寺図』、『寒林図』(台北故宮博物院)、『読碑窠石図』(大阪市立美術館)、『喬松山水図』(日本、澄懐堂美術館)などがある。 范寛(10世紀後半 - 11世紀前半)は、『谿山行旅図』(台北故宮博物院)の作者として知られる。陝西華原の人で、字は中立という。一説に本名は中立で、性格が寛大だったため、范寛と呼ばれたという。職業画家であったとみられ、詳しい経歴は不明である。当初李成画に学ぶが、それに飽き足らず、自然を師として研鑚を積み、自らの画風を築いたという。『谿山行旅図』は、北宋山水画を代表する著名作で、近景の岩と道、中景の台地を画面下方に小さく表し、圧倒的な存在感をもつ遠景の主山が画面の大部分を占めている。山を下方から見上げて、その高さを強調する手法、すなわち「高遠山水」の典型的作品である。本図については、原本に忠実な写しとする説もある。画面の右下、荷物を運ぶ驢馬の列の後方の樹葉にまぎれるように小さく「范寛」の署名があるが、この署名は書風が稚拙で、本図を范寛の真蹟とする決め手にはならない。 郭煕(1023頃 - 1085年頃)は北宋後期の宮廷画家で、河陽温県(河南省)の人。字は淳夫。神宗の熙寧年間(1068 - 1077年)に図画院芸学となり、後に翰林待詔直長という地位についた。理論家でもあり、画論『林泉高致』(『林泉高致集』)の著作がある。高遠(仰角視)・平遠(平面視)・深遠(俯瞰視)の三遠法は郭煕がこの書で述べているものである。郭煕の『早春図』は、北宋山水画の真蹟として現存する数少ない作品の一つである。この作品は、光や大気の存在が的確に表現され、1つの画面に前述の高遠・平遠・深遠の3つの視点が共存するなど、北宋山水画の1つの完成形を示すものである。
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