杉坂悌二郎とは? わかりやすく解説

杉坂悌二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/21 02:29 UTC 版)

杉坂 悌二郎
大湊要港部司令官時代
生誕 1884年2月15日
日本 富山県
死没 (1950-06-22) 1950年6月22日(66歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1906年 - 1937年
最終階級 海軍中将
除隊後 東洋拓殖顧問
海軍省顧問
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杉坂 悌二郎(すぎさか ていじろう、1884年2月15日 - 1950年6月22日)は、日本海軍軍人。海軍の中国専門家。最終階級は海軍中将

経歴

富山県出身。弁護士・杉坂昆明の二男として生れる。攻玉社中学校を経て、1905年11月、海軍兵学校33期)を卒業し、1906年12月に海軍少尉任官。1912年4月から1914年3月まで、海軍大学校選科学生として東京外国語学校中国語を学んだ。1914年4月から私費で中国に留学し北京に滞在。翌年12月、広東駐在となった。

1917年4月、「周防分隊長に着任。「富士」分隊長、軍令部出仕(ハルビン出張)、軍令部参謀(北京駐在)などを歴任し、1921年12月に帰国した。

1922年2月、「平戸」副長となり、次いで「春日」副長を務めた。1923年3月、軍令部出仕兼第1遣外艦隊司令部付(上海駐在)となり、以後、第1遣外艦隊参謀、佐世保鎮守府出仕兼参謀(旅順駐在)、支那公使館付武官など中国関係の勤務が続いた。

1926年12月、海軍大佐に進級。1929年11月、「球磨艦長に着任。「扶桑」「長門」の各艦長、第3艦隊司令部付(上海)、上海海軍特別陸戦隊司令官などを経て、1932年12月、海軍少将に進級。

以後、第11戦隊司令官、大湊要港部司令官を務め、1936年12月に海軍中将に昇進し軍令部出仕となる。1937年3月、予備役に編入され、同年12月、東洋拓殖顧問に就任。また、1938年9月から1942年8月まで海軍省顧問を務めた。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

栄典

位階
勲章等

親族

脚注

  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」69頁。
  2. ^ 『官報』第7084号「叙任及辞令」1907年2月13日。
  3. ^ 『官報』第2129号「叙任及辞令」1934年2月8日。
  4. ^ 『官報』第2384号・付録「叙任及辞令二」1934年12月11日。
  5. ^ 村上一博「草創期明治法律学校出身の代言人《武部其文》の回顧録」『大学史紀要』第13号、明治大学大学史料委員会、2009年3月、368-374頁、ISSN 1349-8231NAID 120005258048 
  6. ^ 藤井健一『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  7. ^ 大野栄三『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。




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