杉坂悌二郎
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杉坂 悌二郎 | |
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大湊要港部司令官時代
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生誕 | 1884年2月15日![]() |
死没 | 1950年6月22日(66歳没) |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1906年 - 1937年 |
最終階級 | ![]() |
除隊後 | 東洋拓殖顧問 海軍省顧問 |
杉坂 悌二郎(すぎさか ていじろう、1884年2月15日 - 1950年6月22日)は、日本海軍軍人。海軍の中国専門家。最終階級は海軍中将。
経歴
富山県出身。弁護士・杉坂昆明の二男として生れる。攻玉社中学校を経て、1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月に海軍少尉任官。1912年4月から1914年3月まで、海軍大学校選科学生として東京外国語学校で中国語を学んだ。1914年4月から私費で中国に留学し北京に滞在。翌年12月、広東駐在となった。
1917年4月、「周防」分隊長に着任。「富士」分隊長、軍令部出仕(ハルビン出張)、軍令部参謀(北京駐在)などを歴任し、1921年12月に帰国した。
1922年2月、「平戸」副長となり、次いで「春日」副長を務めた。1923年3月、軍令部出仕兼第1遣外艦隊司令部付(上海駐在)となり、以後、第1遣外艦隊参謀、佐世保鎮守府出仕兼参謀(旅順駐在)、支那公使館付武官など中国関係の勤務が続いた。
1926年12月、海軍大佐に進級。1929年11月、「球磨」艦長に着任。「扶桑」「長門」の各艦長、第3艦隊司令部付(上海)、上海海軍特別陸戦隊司令官などを経て、1932年12月、海軍少将に進級。
以後、第11戦隊司令官、大湊要港部司令官を務め、1936年12月に海軍中将に昇進し軍令部出仕となる。1937年3月、予備役に編入され、同年12月、東洋拓殖顧問に就任。また、1938年9月から1942年8月まで海軍省顧問を務めた。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
栄典
- 位階
- 勲章等
親族
- 父・杉坂昆明(弁護士) - 明治法律学校中退後、明治18年に代言免許を取得、富山で代言人として活動した[5]。
- 姉・ハルエ(夫は検事の藤井健一)[6]
- 姉・秋(夫の弟に大野緑一郎)[7]
- 長男 杉坂善男(海軍大尉、戦死)
脚注
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」69頁。
- ^ 『官報』第7084号「叙任及辞令」1907年2月13日。
- ^ 『官報』第2129号「叙任及辞令」1934年2月8日。
- ^ 『官報』第2384号・付録「叙任及辞令二」1934年12月11日。
- ^ 村上一博「草創期明治法律学校出身の代言人《武部其文》の回顧録」『大学史紀要』第13号、明治大学大学史料委員会、2009年3月、368-374頁、ISSN 1349-8231、 NAID 120005258048。
- ^ 藤井健一『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 大野栄三『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
参考文献
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